第2話
翌朝、学校に向かう途中の坂道を歩きながら、俺は鞄の中をそっと覗いた。
あった。あの黒いノート。
手のひらの中で、ズシリとした重みを感じる。まるで、俺の今後を握っているかのような存在感だ。
彼女と再会できるまでは、ふざけた冗談だと本気で思っていた。
誰かのいたずらか、あるいは悪質な仕込みか。そんなはずだった。
でも
藤崎梓のあの笑顔。
「うん、やっぱり、久遠くんだ」って優しい言葉。
あの瞬間、何かが、確実に変わった。
これはふざけたノートなんかじゃない。
何かを知っている。
俺の過去か。未来か。それとも、もっと異質な、何かか。
思考がまとまらないまま、俺はいつものように昇降口を抜ける。
けれど、心のどこかが妙に緊張していて、足元がわずかにぎこちなかった。
(なんでだよ……)
そんなふうに自分にツッコミながらも、気づけば靴箱の前で、またノートを取り出していた。
4月8日(金)
07:52 昇降口で彼女と並んで靴を履け。
『なんで俺たち、同じタイミングなんだろうな?』と話せ。
まただ。
まるで、ゲームのフラグイベントみたいだ。
でも、これはただのイベントじゃない。
俺自身の行動が、選択肢が、シナリオとして記されている。
時計を見る。07:51。あと一分。
たった一分が、やけに長く感じた。
手汗でノートの紙が少しふやける感覚に、焦りが増していく。
意識しすぎて、呼吸が浅くなる。
なんでだ。こんなの、ただ言葉を交わすだけなのにまるで、演技をしてるみたいだ。
演じてる自分が、嫌だ。
こんな形でしか、彼女に話しかけられない自分が、情けない。
けれど。
「おはよう、久遠くん」
その声は、不意に。まるで時間の隙間から差し込んできた光のように。
振り返ると、そこにいたのは、やっぱり藤崎梓。
制服のリボンを軽く押さえながら、あの子はにっこりと笑っていた。
長い睫毛の奥で、茶色がかった瞳が朝陽を反射してきらめいている。
頬にはほんのりと血色が差していて、昨日よりも柔らかく見えた。
「久遠くん。昨日ぶりだね!」
きた。
胸が一瞬、締めつけられる。
わかっていたはずなのに、それでも、彼女の笑顔を見ると心がざわつく。
(言うしかない)
台詞が脳内で再生される。
俺は口を開く。
「なんで俺たち、同じタイミングなんだろうな?」
言った瞬間、軽く胃が痛んだ。
あぁ、また台本通り。俺の言葉じゃない。これは、ノートのセリフだ。
でも。
「ふふっ。久遠くんって、やっぱ変わってないね」
彼女は楽しそうに笑った。
その笑顔は、屈託がなくて。
けれどどこか、少しだけくすぐったそうで、まるで、嬉しさを隠しきれない子供みたいで。
「なんか、懐かしい感じがするね」
その言葉が、胸の奥をやわらかく突いた。
懐かしい。
そう、たしかに。俺たちは幼馴染だった。
小学校の途中まで、隣に住んでいた。
公園で一緒に遊んで、ケンカして。
でも結局、負けるのは俺の方で。いつだって、彼女が先を歩いていた。
あのころから、梓は少しおてんばで、でも人懐っこくて。
笑うと、口元よりも先に目がくしゃっとなるのが印象的だった。
今もその笑い方は、まったく変わっていない。
俺はいつも、その背中を追いかけていたんだ。
でも。
中学に入るとき、彼女が引っ越して、それっきりになった。
当時は、それほど大ごとじゃないと思ってた。
でも、気づけば、誰かと深く関わることが、怖くなっていた。
彼女が俺の世界からいなくなったその瞬間に、空いたままの場所があった。
その空白に、ずっと気づかないふりをしてきたんだ。
昨日、再び話して。
俺はようやく気づいた。梓は、俺の中でずっと、特別な存在だったんだって。
「梓って、昔から朝に強かったよな?」
何気なく口に出した俺の言葉に、彼女は少しだけ目を丸くして、
「え、覚えててくれたの?」
と、ぽそっと呟いた後、ふわっと笑みを深めた。
「覚えててくれたんだ。うん、今も早起き得意」
その声が、どこか弾んで聞こえた。
まるで、喜びをそっと包み隠すような、けれど、隠しきれていない無邪気な響き。
たったそれだけのやりとりなのに、どうしようもなく、嬉しかった。
ちゃんと伝わってる。
あの頃の記憶が蘇っていたのは俺だけじゃなかったって。
本当に懐かしんでくれてる。
そう思えたことが、心の奥でじんわりと広がっていく。
けれど、ふと、また疑念がよぎる。
(ノートに頼って、彼女に声をかけていいのか?)
これでいいのか?
こんな風に、導かれるままに動いて。まるで操り人形じゃないか。
これはやらされてる恋じゃないのか?
でも。
梓の笑顔を見てると、その疑問がすっと消えていく。
心が勝手に、彼女を追いかけようとする。
それは、昔と同じだ。
幼い頃からずっと、変わらずに。
「じゃあ、教室行こっか。一緒に」
梓が先に歩き出す。
制服のスカートがふわっと揺れて、明るい髪が背中でやわらかく跳ねる。
その後ろ姿は、まるで昔見たあの背中と重なって見えた。
俺は思わず、ふっと笑ってしまった。
(変わってねぇな、俺……)
何年経っても、俺は結局こうして藤崎梓の背中を追いかけている。
けれど。
そのとき、ポケットの中のスマホがブルッと震えた。
取り出すと、画面に見慣れない文字列が浮かんでいた。
『SYSTEM:シナリオ逸脱度 1.4%』
「は……?」
一瞬、目を疑った。
こんなアプリ、入れた記憶はない。
しかも、通知欄にも記録は残っていない。
それなのに、確かにそこに表示された。
異様なまでに、冷たいフォントで。
(なにこれ? 誰かが、見てる?)
まるで、俺の一挙一動が監視されているような感覚。
皮膚の下を何かが這うような、不快なざわめき。
俺の言葉か、行動かなにかが、予定とズレた?
逸脱度は、たった1.4%。
それだけでエラーとしてカウントされるほど、これは精密な何かなのか。
(誰だ、これを見ているのは)
ノートは、ただの冗談じゃない。
そして、この謎の通知もおそらく、それ以上に不気味で、意味深い。
答えはまだ見えない。
でも、確かなのはこの恋は、なにかがおかしい。
最新話まで読んで戴きありがとうございました。
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