第三章(9)
「おいしー!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ほっぺたを押さえて歓喜の声を上げる朝霧さんを向かいに見ながら、僕もアオリイカのお刺身を口に運ぶ。
「……いや、本当に美味しいですね……」
「ね! こんなに美味しいイカがあったとは……」
アオリイカは六月が旬とのことで、渡会島でもよく獲れるとか。それを新鮮なままお刺身にしたものが美味しくないわけもなく、ひょいひょい箸が伸びる。
朝霧さんは渡会島の地ビールを口に運んでいる。
「一応! 一応、取材だから!」
「なにも言ってないじゃないですか……」
ぷはーっ! とそれだけでビールの宣伝になりそうな笑顔を浮かべて、朝霧さんは美味しそうにグラスの中身を飲み干している。僕は下戸なので、麦茶だ。
渡会島特産の野菜を使ったカルパッチョも、渡会牛を使ったステーキも美味しかったけれど、目の前で満足げな笑みを浮かべて次々と食事を平らげていく朝霧さんを見ていると、その顔で更にご飯が美味しくなるような気がしてくる。
「なーに、人の顔じろじろ見て」
「いや、別に……」
「ふーん?」
なにか言いたげに僕を見ながらビールを呷る朝霧さんの机の前は、空のお皿でいっぱいだ。そういえば写真、撮ったんだろうかと思う。……撮ったよね?
僕はといえば、見ただけではなんの料理か一切分からなかったので、料理が運ばれてくるたびにメニュー名と素材をいちいちメモしていた。
まあ……聞いてもわからない料理や素材、多かったけれど。
「ふふん、小鳥遊くんがメモ取ってくるから助かったわ」
「朝霧さん、メモ取ったんですか?」
「もちろん」
自慢げにスマホの画面を僕に見せてくる。そこには僕が聞いた内容と、まったく同じものがメモされていた。
「……いつの間に」
「ふふふ、先輩を舐めないことね」
「流石です」
「くひひ。ありがとね。もっと褒めるといいよ」
けらけら笑いながら、美味しそうにビールを呷っている。でもね、と朝霧さんは続けた。
「頭を下げられるほどすごい先輩じゃないよ、私」
「そう、ですか? 取材先でもいろいろ教えてくれますし、いつもすごい先輩だな、と思っているんですが」
「そういってくれてありがとうね。……そっか、私が賞を取ったのも、知ってたのね」
「……すみません、検索サイトに出てきて……つい」
「あー! いやいや。別に嫌だってわけじゃまったくないの。むしろ、よく知ってたなって思っただけ」
「その……一緒に名前の載ってた、一ノ瀬さん、って方が、朝霧さんの先輩ですか?」
その名前が出た瞬間、朝霧さんのお酒を飲む手が止まる。
「そう。あのコンテストも、先輩に勧められて応募したんだ」
懐かしいな。部屋の片隅を見上げ、どこか遠い目。
「朝霧さんの先輩って、どんな人だったんですか?」
聞くまい、と思っていたのだけれど、気が付くと口から言葉が飛び出していた。
「んー」
朝霧さんは複雑そうな顔をしている。話したくないなら、と言い掛けた僕より先に、彼女は言った。
「文章は、上手かった。小鳥遊くんは本当に上手な文章って、わかる?」
「……本当に上手な文章、ですか」
「うん。私はね、個性が出ていて、素敵な言葉で彩られた……そんな文章だと思っていたの。だけどね、先輩の文章は違った。とにかく読みやすくて、余計な彩りはいっさいなくて。だけど……ううん、だからこそ、かな。いいたいことがまっすぐに伝わってきて、私はそんな文章に感銘を受けたのを覚えているな」
「へえ……」
「先輩がいた頃は、まだ私も入社したてだったからさ。そんな先輩に感銘を受けて、先輩みたいな文章を書こう、と思ったこともあったかしら。まだ自分の中で『いい文章』の基準が出来てなくて、おまけに今日の小鳥遊くんみたいに、足を引っ張らないようにって焦ってたのもあると思う。結局、それは『下手くそ』って言われて、捨てられちゃったんだけどね」
『愛らしい朝顔は、まだ見ぬ明日に向かって花を咲かせています! これからグングンと育っていく朝顔のように、私も精進しなければ、と思いました!』
そんな文章を、昨日読んだことを思い出す。
『まだ見ぬ明日』というフレーズが印象的だったせいか、鮮やかに思い出せるその文章。それは朝霧さんにしか書けない文章だと、僕は思った。
「朝霧さんの文章……僕は好きです。捨てるだなんて……そんな」
だから、少し語気が荒くなったかもしれない。きょとん、とした朝霧さんはすぐに 破顔一笑、あははは! と大きな声で笑いはじめた。
「……そんなにおかしかったですか」
「あー! いやいや、ごめん。なんかムキになってくれたのが……嬉しくてさ」
「ムキ……」
確かにそうだ。こんなところで熱くなる必要はなかったな、と頭を掻く。そんな僕の様子を見ていた朝霧さんは、「本当に、ありがとうね」といった。
「そこまで私の文章を好きだ、っていってくれたの、本当に嬉しいんだよ」
「……なら、良かったですけれど」
「私も……完璧な先輩でもなんでもないからさ。ときどきボロが出てたら、ごめんね」
「いや、そんな。僕は、自分の気持ちを伝えただけですから」
「ふふ。優しいね、小鳥遊くんは。私は小鳥遊くんが後輩で良かったよ」
互いに沈黙。窓の向こうから聞こえてくる潮騒の音を聞きながらお茶を飲んでいると、朝霧さんが口を開いた。
「先輩は、私の事をどう思ってたんだろう。……嫌われてたのかな」
小さく、ため息が落ちる。
「細かい作業しか教えてくれなかったのは、いい。仕事ってそういうものだし。だけど必死に先輩に付いていこうと思って書いた文章は下手だって一蹴されたし、挙句の果てに……」
諦めたような、それでもなにかを心の中で堪えるような、強張った顔でなにかを続けようとする朝霧さんの姿に、僕はつい、話を遮るように口を開いてしまった。
「完璧じゃなかったとしても! 僕の憧れの先輩は……朝霧さんです」
朝霧さんは僕の言葉に、虚を突かれたような表情になる。そしてくすりと笑って、
「ありがとね」
そして。
「……小鳥遊くんはさ、いなくならないでね」
その言葉が、あまりに重く聞こえたものだから。
僕はその言葉の意味を、問い返すことができなかった。
食事が終わると、そのまま解散になった。
「それじゃ、朝九時、私の部屋に集合ね」
ひらひらと手を振る朝霧さんと別れ、自分の部屋に戻る。
いつの間にか布団が敷かれていて、僕はその誘惑に逆らう事ができなかった。
図らずも結構な勢いで倒れ込んでしまったが、柔らかい布団はすべてを受け止めてくれる。さすが一流ホテル、と僕は妙なところで感動してしまった。
アラームを八時にセットする。着替えなければいけないのだけれど、その体力すら残ってなかった。
「先輩、か」
先ほどまでの朝霧さんの顔を思い出す。
朝霧さんはずっとにこにこしていて、優しい先輩だったから……あんなに顔が歪むのを、僕は初めて見た。思えば朝霧さんだって人間だから辛そうな顔をしたり、涙を流すこともあるのだろうけど……。
朝霧さんの先輩は……どんな人だったのだろう。
考えている内に、意識が闇に沈んでいく。
闇の中で見たのは、朝霧さんの強張った、なにかを堪えるような表情だった。
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