第三章(8)

 ホテル渡会は、創業百年を超える、伝統ある老舗ホテルである。

 戦時中に建物のおおよそが半壊してしまったものの、戦後の復興や度重なる増改築、そして印象的なCMのおかげで、神辺でいちばん有名かつ立派なホテルといっても過言ではない。


「でっかいねぇ……」


 まるで子供のような、朝霧さんの言葉に同意せざるをえない。駐車場を探すためにホテルの周囲をぐるりと回ったが、一周するのに十分も掛かってしまった。

 それもそのはずで、エントランスと食堂、温泉が一体になった中央棟の左右に、それぞれ十二階立てのホテル棟が立っている。正面から引いて見ると、ちょうど『凹』の形に見えるはずだ。


「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださりました」


 ロビーに入ると、一斉にそんな声が飛んでくる。信じられないくらい広いロビーのあちこちにスタッフの人達が立っていて、僕らに頭を下げてくる。……なんだかとても恐縮だ。


 朝霧さんは慣れたものなのか、軽く頭を下げながらすたすたとフロントへと歩を進めている。勝手にシーズンオフなのかな、と思っていたが、ロビーのあちこちには案内待ちなのか、ソファでくつろぐ観光客の姿が何人も見受けられた。

 フロントで丁寧に頭を下げる女性のスタッフに、朝霧さんが名刺を渡す。


「『東西旅行』の朝霧と申します。本日は取材に参りました」


「お伺いしております。担当者を呼んで参りますので、少々お待ちください」


「すごいね、緊張するね」


 朝霧さんが耳元で僕に囁く。

 まったくだ。あまりにもてなしの心を感じると、人は恐縮というものを感じるらしい。どことなく居心地の悪さを感じながら二人でロビーの隅の方にいると、スーツを着こなした、恰幅のよい紳士が向こうから歩いてくるのが見えた。



 中央棟向かって左が『ホテル渡会』、右が『ホテル渡会 和夢(わむ)』というらしい。今回僕らが泊まるのは、左棟の『ホテル渡会』。

 その、十一階。朝霧さんの部屋。


「それでは、ごゆっくりお過ごしください。館内の取材に関しては取材パスをご用意しておりますので、こちらを下げてご覧になっていただけると幸いです」


 部屋まで案内してくれた恰幅のよい紳士……広報担当の人がそういうと、一礼をして部屋から出ていく。ドアががちゃりと閉まった瞬間、朝霧さんが叫んだ。


「んー! 広―い!!!」


 僕らが今いる和室は、事前に調べた資料によると四十八畳もあるらしい。入り口にはバスルームとトイレ、和室の奥には広縁があり、机と椅子が並べられている。広縁の窓からは海が見えて、暮れなずむ空と夕陽に照らされた水面が綺麗に見えた。


「じゃあ、僕も自分の部屋に荷物を置いてきます」


「うん。戻ったらホテルの中を見て回りましょうか」


 じゃね、と小さく手を振る朝霧さんに見送られて、僕は部屋を出る。

 つくづく夜凪さんのツッコミは正しかった、と思う。もし部屋が一つしか確保されていないままだったら、朝霧さんと相部屋になるところだった。それはそれで……と思うけれど、やっぱり気まずかっただろうな、と思う。

 僕の部屋は隣だった。間取りも一緒。本当に大きな部屋を貸してくれたものだと思う。資料によれば最大三人まで泊まれる部屋と書いてあるが、実際はもっと泊まることができそうだ。いずれにせよ、一人が一晩使うだけには贅沢すぎる。

 畳の上に荷物を置いて、ふう、と一息吐く。その時、鞄からころん、とカメラが落ちた。どうやらきれいにリュックのファスナーを閉めていなかったらしい。

 真新しいカメラには小さな傷が入っていた。さっき『渡会花ばたけ』で花壇に突っ込みそうになった時、どこかにぶつけたのだろう。


「あーあ……」


 なんとなく擦ってみたりして、傷が消えないか試みる。当然消えないわけで、がっくし、と僕は項垂れた。

 とはいえ、いい写真は撮れた。自分の頑張る方向も、見えた気がする。


「僕にしか見えない景色を書く、か」


 具体的にどうすればいいかはまだ見えてこないけれど、それを見つけるのも僕の仕事だろう。鞄から取材メモを取り出し、部屋を出る支度をする。

 ドアを開けると、ちょうど朝霧さんも、自分の部屋から出てきたところだった。



 ホテルをぐるりと一周する。といっても、両棟合わせて二十四階建てのビルをすべて回るのは時間的にも困難なため、ホテル内にある大きな施設に的を絞って取材を行った。

 それでも、一時間は掛かっただろうか。


「よし、施設の取材はこんなものでいいでしょう。後は温泉とお料理、ってところかしら。今のところは待つしかできないし、残りの時間は楽しむことにしましょうか」


「そうですね……」


「ふふ、ずいぶん疲れたみたいじゃん、小鳥遊くん」


 頑張るぞ、と思って一時間もしないうちにヘロヘロになってしまったのではカッコ悪いことこの上ないが、朝から夕方まで島を歩き回った後に更にホテルをみっちり歩くと、やっぱり疲れてしまった。

 とはいえ。


「朝霧さんも、ちょっと疲れてません?」


「あ、バレた?」


 いつもより歩幅が小さい。理由としてはそれだけの当てずっぽうに近かったのだけど、彼女は僕の言葉に、ぽりぽりと頭を掻いた。


「さすがに今日はよく歩いたわ。こりゃ温泉が気持ちいいわね」


「ですね……」


 二人で顔を見合わせて笑う。


「あ、そうだ。取材中、小鳥遊くん、わざと私と違うところ見てた?」


 ふいの質問に言葉が詰まる。朝霧さんの取材範囲外をフォローしようと思ってわざとそうしていたのだが、まさかバレているとは思わなかったのでびっくりした。


「やっぱりね。すごい助かった。一人だけだとやっぱり見落としがあるから、全神経を集中して取材しちゃうんだけど、今日は小鳥遊くんが違うところを見てくれているのがわかったから、安心して背中を預けられたかな。ありがとうね」


「いえ、そんな」

 褒められるのは嬉しいけれど、自分の考えが変わるきっかけになったのは朝霧さんのおかげな訳で。素直に頷くことができなかった僕に、朝霧さんがくひひ、と笑う。


「謙遜しなくてもいいのに。さすが私の相棒よ」


「謙遜しているわけじゃないんです。『渡会花ばたけ』で朝霧さんがいった、私には見えない景色を書きとめてほしい……って言葉。ああそうだな、と思ったんです」


「おお、そういわれるとなんか、恥ずかしいね」


「朝霧さんはすごい人です。それこそ、賞を取るくらいに。そんな人に追いつこうと思ったら、自分だけの視点を持つことが大事なのかな……って。自分の中でもどうしたらいいかわからなくて、試しに朝霧さんと違うものを見るようにしていたのですが、褒めてもらえて、嬉しいです」


「そっか。仕事をする上でね、トライ&エラーが自分でできる人は、すごいと思う」


 そこまで話してちょうど、朝霧さんの部屋の前まで戻ってくる。朝霧さんの顔がくるりとこちらを向いて、なびいた髪から優しい匂いがした。


「小鳥遊くん、今日の取材は楽しい?」


 考えるまでもない。


「ええ、とても」


 そっか、と嬉しそうに笑う朝霧さんは……ふと、気付いたように僕にいった。


「そういえば、私が賞を貰ったことがあるって話……したことあったっけ」

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