第15話 漆黒の狩人と沈黙の拠点

セレーナの意識は、既にアビスのメインサーバーから撤退し、次の段階へと移行していた。莫大な資金は最適化されたルートで再分配され、彼女の「働いたら負け」哲学は、デジタル空間において完璧に貫かれた。しかし、彼女の脳内では、未だアビスが物理的に所有するデータや、中核を担う幹部たちの存在が、新たな「面倒事」として認識されていた。完全な「無駄の排除」には、物理的な介入が必要だった。


「シエル、シャドウズを動かすわ。残されたデータ、そして『彼ら』を完全に沈黙させてちょうだい。私の怠惰を脅かす根源は、徹底的に摘み取る必要があるわ」


セレーナの声は、絶対的な静けさを保っていた。彼女の瞳は閉ざされたまま、その意識は漆黒のシャドウズへと完全に同期している。その姿は、まるでベッドに横たわる女王が、見えない糸で自らの兵を操るかのようだった。


シエルは、一瞬の躊躇もなく応じた。彼の脳内では、セレーナの思考がシャドウズの行動ロジックを最適化している様子が、驚異的な速度で展開されていた。シャドウズが展開可能なあらゆる行動パターンが、セレーナの指示一つで、最も効率的なルートへと収束していく。それは、彼がこれまで経験したどの技術よりも、洗練され、無駄のない動きだった。


「畏まりました、お嬢様。シャドウズが物理的にアクセス困難な地下データセンターへ潜入を開始いたします。ご令嬢の指示に従い、必要なデータの複製と、証拠隠滅防止措置を完璧に行います」


シャドウズの各ユニットは、音もなくセレーナの寝室の奥深くにある隠し通路から滑り出し、アビスの地下データセンターへと向かっていった。彼らの動きは、人間のそれを遥かに超越している。最新の監視カメラをハッキングし、レーザーセンサーを回避。武装警備員が巡回する通路を、まるで影が滑るように進んでいく。彼らは、セレーナの「無駄の排除」という思想を、物理空間で具現化する、究極の執行者だった。


同時刻。


アビスの地下データセンターの深部では、一人の盲目の老幹部が、静かに瞑想していた。彼の名は、ゼノン。アビスの設立当初からのメンバーであり、他の幹部たちが金と権力に溺れる中、彼はただ一人、組織の裏に潜む「何か」の気配を追い続けていた。アビスの資金が突如として消滅した際も、他の幹部がパニックに陥る中、ゼノンだけは表情一つ変えなかった。彼の目が見えない代わりに、その第六感は、常人の理解を超えるほど研ぎ澄まされていた。


(これは……神か悪魔か……人ではない。我々の築き上げてきた論理と欲望のシステムが、まるで意思を持つ何かに、整理されているかのようだ。こんな完璧な『排除』は、人間には為し得ない。まさか……来るのか……?)


ゼノンの額に、わずかな汗が滲んだ。彼の第六感が、極めて洗練された「力」の接近を告げていた。それは、彼が今まで感じたことのない、絶対的な静謐さと、同時に底知れない冷酷さを併せ持つ「気配」だった。


その時、データセンターの入口から、ごく微かな、しかし確かな金属の摩擦音が響いた。ゼノンは、瞑想を中断し、静かに立ち上がる。


「ご令嬢、シャドウズが幹部たちの部屋に到達しました。制圧を開始します。彼らの抵抗は、予測通りの非効率なものです」


シエルの報告が、セレーナの耳元に届く。セレーナの脳内では、シャドウズのセンサーから送られてくる物理的な環境情報が、リアルタイムに解析され、最適な行動パターンが指示される。彼女の脳内では、仮想空間でのシミュレーションが現実のシャドウズの動きに同期し、無駄な動きが一切ない。


「ご苦労様。無駄な抵抗は許さないわ。彼らの無駄な動きは見ていて苛立つだけよ。私の視覚情報を無駄に消費させないでちょうだい」


シャドウズは、セレーナの言葉を忠実に実行する。最新の監視カメラがハッキングされ、警備員たちは次々と無力化されていく。その動きは、まるで熟練のダンサーが舞うかのように滑らかで、一切の無駄がない。彼らの目的は、メインサーバーのデータ複製と機能停止、そして幹部の制圧だった。


シエルが「お嬢様、シャドウズの動きが、まるで…人間を超越していますね。完璧です。これは、まるで…生命が宿っているかのような…しかし、これは…技術…?」と声を上げた。


セレーナは静かに目を閉じたまま応じる。その唇の端が、微かに持ち上がる。


「当然よ。私の思考の完璧な具現化なのだから。私の理想の動きだわ。無駄を徹底的に排除した、究極の効率性よ。彼らは私の技術の延長線上にいるだけよ」


シャドウズがゼノンの部屋の扉を音もなく開いた。ゼノンは、静かに彼らを迎え入れた。その顔には、絶望ではなく、ある種の諦念と、深い理解が浮かんでいた。彼は、これが「人ではない」何かの介入であると、本能的に理解していたのだ。


窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。排気ガスの匂いや、クラクションの不規則な音が、セレーナの城塞には届かない。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率6.9%のまま」というニュースが、何事もなかったかのように表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。しかし、その「効率」は今、セレーナの「怠惰のための介入」によって、静かに、そして容赦なく揺らぎ始めていたのだ。


シエルは、お嬢様の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。彼の完璧な執事としてのシステムは、すでに次の「無駄の排除」へと、静かに、そして容赦なく動き始めていた。

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