第14話 影の舞踏会と絶望する幹部たち
セレーナの意識は、すでにアビスのメインサーバー中枢へと、深海の底へ潜るかのように深く、そして音もなく潜り込んでいた。彼女の脳内では、莫大な資金が保管された口座リストが、まるで立体映像のように目の前に展開される。数字の羅列一つ一つが、どこから流れ込み、どこへと消えるべきか、瞬時に判別されていく。それは、彼らが築き上げた堅牢なデジタル要塞が、セレーナの思考の前には、透明なガラス細工のように見えているかのようだった。彼女の視線は、資金の淀み、不自然な滞留、そして最も効率の悪い「無駄」な蓄積へと吸い寄せられていく。
「(莫大な資金ね。これだけあれば、一生働かずに済むかしら? いいえ、これでは『働いたら負け』の原則が崩れるわ。私が手に入れるべきではない。汚い金は触るのも面倒だわ。社会にとっての『無駄』は、排除するに限るわね。この資金は、無駄な欲によって歪められている。最適な状態へと『再分配』するべきだわ)」
セレーナの思考が、冷徹な論理で資金の「最適化された再分配」を決定する。彼女の指先が、シーツの上でわずかに、しかし確実に動いた。それは、サイバー空間で、彼女の意識が莫大な資金の移動を指示する際の、ごく微細な物理的連動だった。彼女の脳内では、資金が追跡不可能なほど細かく分散され、世界中の最も困窮した地域や、人類の未来に貢献する医療研究機関など、最も「効率的に」社会に還元されるべき場所へと瞬時に振り分けられていく計画が構築される。彼女の行動は、決して感情的な「正義」ではない。究極の「効率」と「無駄の排除」という哲学の具現化だった。
同時刻。
アビスの薄暗い作戦室では、幹部たちが並んだディスプレイの前に座り、刻一刻と変化する自分たちの資金残高を凝視していた。数秒前まで彼らの顔には、傲慢な笑みが浮かんでいたはずだった。しかし、その笑みは、みるみるうちに凍りつき、やがて顔面蒼白の絶望へと変わっていく。
「なんだこの送金履歴は!?」「資金が消えていく!?」「馬鹿な! このセキュリティは絶対だぞ! 誰だ!?」
幹部たちの悲鳴のような声が、作戦室に響き渡る。ディスプレイに表示される資金残高のグラフは、ジェットコースターのように急降下し、瞬く間にゼロへと近づいていく。莫大な資金は、彼らの目の前で、追跡不可能なほど細かく分散され、国連の飢餓救済基金、各地の医療研究機関、災害復興支援団体など、彼らとは全く無縁の、しかし確実に「社会の無駄を排除する」場所へと送金されていった。彼らは、何が起こっているのか、全く理解できなかった。自分たちのシステムが、不可視の力によって、根底から破壊されていることなど、知る由もなかった。彼らの目に見えているのは、ただ目の前の「機能停止」という現象だけ。そして、彼らが積み上げてきた「富」という幻想が、音もなく崩れ去る現実だけだった。
セレーナの脳内では、アビス幹部たちの混乱と焦燥が、まるで感情の波形として可視化されていた。彼らの叫び声は、彼女の耳には届かないが、その「無駄な感情の爆発」は、データとして認識される。
「(焦っているわね。資金が足元から崩れていく感覚は、さぞかし不快でしょうね。私には縁のない感情だけど。無駄に金ばかり集めるからよ。非効率な欲望は、破滅を招くものだわ。彼らが作り出した『無駄』が、今、彼ら自身に返っていく。これが、彼らにとっての最適化ね)」
セレーナの唇の端が、微かに持ち上がる。それは、完璧な論理が導き出した「無駄の排除」が、計画通りに進行していることへの、静かな満足の表れだった。彼女の「働いたら負け」という哲学は、世界規模の「無駄」をも容赦なく排除し、彼女の怠惰な日常を守るための、絶対的な行動原理なのだ。彼女の介入は、世界に「最適化」をもたらす、静かなる革命だった。
窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。排気ガスの匂いや、クラクションの不規則な音が、セレーナの城塞には届かない。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率は6.9%のまま、変化なし」というニュースが、何事もなかったかのように表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。そのコントラストは、セレーナの完璧な日常の、ひび割れが、より深く、より明確になっていくことを示唆していた。そして、そのひび割れは、セレーナ自身が、意図せずして外界へと手を伸ばすきっかけとなるのだ。
シエルは、お嬢様の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。彼の完璧な執事としてのシステムは、すでに次の「無駄の排除」へと、静かに、そして容赦なく動き始めていた。
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