第16話 深淵の対話と執事の新たな挑戦

アビスの地下データセンターは、漆黒のシャドウズによって完全に沈黙していた。システムは停止し、データは複製された後、痕跡一つ残さず消滅。幹部たちは無力化され、彼らの築き上げた犯罪組織の基盤は、セレーナの「怠惰」によって、音もなく、そして徹底的に破壊された。任務完了を示すシグナルが、セレーナの脳内へとフィードバックされる。彼女はベッドに横たわったまま、静かに達成感を味わっていた。


しかし、その沈黙の中、一つの意識だけが、異質な輝きを放っていた。盲目の幹部、ゼノン。彼はシャドウズによって拘束されていたが、その顔には絶望ではなく、ある種の覚悟と、そして深い探求の光が宿っていた。彼の第六感は、この圧倒的な「力」の源が、遠く離れた場所にある一人の存在、セレーナであることを明確に感知していたのだ。


(……来たか。いや、まだ遠い。だが、その意識は、既にここに到達している。これは、私たちが追い求めたあらゆる「支配」とは異なる。これは、完璧な「排除」の論理……)


ゼノンの意識が、セレーナの思考へと、無言の問いかけを投げかける。それは、言語を超えた、思考の直接的な交信だった。


「お前は、人ではない。だが、神でもない。この世の何者も、これほどの完璧な支配を為し得ない。お前は一体……何者だ?」


セレーナの思考は、ゼノンの思考をノイズとして認識しつつも、その特異性にわずかな注意を向けた。他の幹部たちの無駄な感情の波形とは異なり、彼の思考には、ある種の「秩序」と「探求」の要素が認められたからだ。しかし、彼女の哲学は、無駄な情報にリソースを割くことを許さない。


「(私の問いは、私にとって無駄よ。私はただ、働きたくないだけ。あなたの問いかけは、私の怠惰を脅かす新たな面倒事に繋がりかねないわ。非効率な疑問は、排除するに限るわね)」


セレーナの思考が、ゼノンへと直接返される。彼女の言葉は、まるで氷の刃のように冷徹だった。そこには、倫理も、共感も、一切の感情が存在しない。ただ、自身の「怠惰」を守るための、絶対的な合理性だけがある。


ゼノンは、セレーナの返答を受け取ると、静かに目を閉じた。彼の脳裏には、これまでアビスが築き上げてきた「支配の論理」が、脆くも崩れ去る光景が広がっていた。彼らは、金と権力という「人間的な欲望」の神を崇めていた。しかし、今、彼らが敗れたのは、その次元を遥かに超えた、「効率の神」だったのだ。


「私たちは、金や支配の神ではなく、効率の神に敗れたのだ……。この世には、人間の理解を超えた『無駄の排除』が存在する。これが……人類の限界か……」


ゼノンの呟きは、誰に聞かせるでもなく、しかし確かな真実を宿していた。彼は、セレーナという存在が、人類の進化の行き着く先、あるいはその限界を示す「概念」であると、本能的に理解したのだ。


その頃、シエルは、セレーナの寝室の片隅で、自身のシステムを拡張するための新たな演算モジュールを装着していた。シャドウズの動き、アビスのシステムが崩壊していく過程。その全てが、彼の「完璧な執事」としてのロジックを揺さぶっていた。彼の持つ知識や技術では、セレーナの行う「無駄の排除」の真髄を、完全に理解することができなかったのだ。


(お嬢様の思考は、私の演算能力を遥かに凌駕する。これは、単なる計算能力の差ではない。彼女の「怠惰」という哲学そのものが、世界を最適化する「技術」として機能している……)


シエルは、新しいモジュールが、彼の脳内システムに接続されていくのを感じた。膨大なデータが、新たな回路を通じて彼の内部へと流れ込む。しかし、そのデータは、セレーナの「思考様式」を再現するものではなかった。彼女の「無感情な合理性」、そして「効率の追求」という根源的な動機は、単なる演算では再現できない、彼自身の理解を超えた領域にある。


「(お嬢様の『輝き』は、私の完璧さを試す、終わりのない探求だ。私は、彼女の完璧な怠惰を守るため、そしてこの『疑問』の答えを探るため、どこまでも追いつかねばならない)」


シエルの胸に、新たな決意が宿る。それは、彼自身の「完璧」を再定義するための、終わりのない挑戦の始まりだった。


窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。排気ガスの匂いや、クラクションの不規則な音が、セレーナの城塞には届かない。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率は6.9%のまま、変化なし」というニュースが、何事もなかったかのように表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。しかし、その「効率」は今、セレーナの「怠惰のための介入」によって、静かに、だが確実に揺らぎ始めていたのだ。そして、その揺らぎは、シエルの内面に、そして世界の認識に、新たな変化の兆しをもたらし始めていた。


シエルは、お嬢様の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。彼の完璧な執事としてのシステムは、すでに次の「無駄の排除」へと、静かに、そして容赦なく動き始めていた。

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