第7話 静かなる戦術会議と、シエルの新たな役割
転売に関するニュース速報が消え去った後も、寝室には、セレーナが放つ冷たい怒りの残滓が満ちていた。彼女の「働いたら負け」という絶対的な哲学が、得体の知れない「無駄」によって侵害された事実は、彼女の完璧な日常に、決して許されない亀裂を生んでいた。セレーナは、ベッドに身を横たえたまま、ただ静かに、その解決を待っている。その瞳の奥には、データが高速で処理される際に生じる、わずかな熱のような光が宿っていた。
「シエル」
セレーナの声は、もはや苛立ちを含んでいなかった。それは、最高司令官が次の作戦を命じるかのような、冷徹な響きを帯びていた。彼女の脳内では、既に「無駄の排除」という目的達成のための最適ルートが、幾千ものパターンでシミュレートされ、収斂されつつあった。
「この転売屋に関する情報は、全て集まったかしら? 詳細に、漏れなく、根こそぎよ。彼らの存在は、私の怠惰な日常の欠損と判断する。そして、その欠損は、私の許容範囲を完全に超えている」
シエルは、セレーナの言葉に迷いなく応じた。彼のシステムは、お嬢様の不快感を排除するため、既に最大限の効率で稼働している。壁一面のディスプレイには、転売組織のリスト、主要メンバーのプロフィール、資金の流れ、そしてネットワーク構造が、瞬時に、そして完璧な秩序をもって表示された。それらの情報は、シエルが持つ膨大な知識と、独自の情報網を駆使して集められたものだった。一つ一つのデータは、彼の完璧な執事としての使命感の具現化と言えた。
「はい、お嬢様。ご指示の通り、全ての情報を集約いたしました。彼らのネットワークは複雑に絡み合っておりますが、深層まで解析を完了しております。関連するシステム全てを網羅し、弱点も特定済みでございます」
シエルの報告は完璧だった。しかし、セレーナの思考速度は、彼が想定する遥か上を行く。彼女の視線がディスプレイを滑るたびに、膨大なデータが瞬時に読み取られ、解析されていく。それは、まるで世界中の情報が、彼女の脳内で高速で編み直されていくかのようだった。彼女の顔には、この「無駄」を排除する作業が、すでに「完了」したかのような静かな確信が浮かんでいる。
「ふむ。この程度のシステム、私の頭脳を煩わせるまでもないわ。でも、どうせやるなら、二度と私に面倒を押し付けないようにしてほしいわね。私を一度不機嫌にさせた罪は重い。私の思考エネルギーの浪費は、許されないわ」
セレーナの脳内では、転売ネットワークの脆弱性分析が超高速で行われ、最適な介入ポイントと、「最小の労力で最大の効果」を出すためのアルゴリズムが、瞬時に構築されていく。彼女の思考は、まるで無駄な枝葉を刈り取り、核心へと最短距離で到達するレーザーのようだった。その発想の効率性は、シエルをして「不可能」と断じさせるほどだった。
シエルは、お嬢様のその圧倒的な解析速度と、既に次の段階へと進んでいる思考に、改めて驚愕した。
「お嬢様は何かお考えで? 私には、少々困難かと存じます…その複雑なネットワークを、根本から…」
シエルの声には、ごくわずかな困惑が混じっていた。彼の完璧な能力をもってしても、この転売ネットワークを「根こそぎ」排除する具体的な、そして法的な制約を回避する方法は、依然として見えていなかったのだ。彼の脳裏には、既存の法的な制約や、倫理的な問題、技術的な障壁が次々と浮かび上がる。しかし、セレーナの思考は、そのような常識の範疇には囚われていなかった。
セレーナは、シエルの言葉を聞きながらも、静かに目を閉じた。彼女の「働いたら負け」の原則は、自分にとって不快な存在を排除するための「働き」をも正当化する。そして、この「非効率な転売行為」というノイズを撲滅するためならば、僅かな労力も惜しまないという揺るぎない意思が、彼女の内に満ちていた。それは、単なる個人的な感情ではなく、彼女の哲学に基づいた、ある種の使命感と言えた。
「当然よ。私の貴重な時間を無駄にさせたのだから、きっちり後悔させてあげないと。あなたは私がスムーズに動けるように、必要な情報を用意する、それだけでいいわ。あとは私の領分。働いたら負け、それを脅かすものは排除する。これは私の、最も重要な『無駄の排除』という仕事よ」
セレーナの言葉は、絶対的な真理のように響いた。シエルは、お嬢様のその揺るぎない決意と、彼女が語る「仕事」の深遠な意味に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。それは、彼がこれまで理解してきた「仕事」とは、全く異なる次元の概念だった。
「畏まりました、お嬢様。御心のままに。私の認識能力では追いつきませんが、お嬢様の全てを支援いたします」
シエルは深々と頭を下げた。彼の完璧な執事としてのロジックの中では、セレーナの行動が単なる命令ではなく、理解不能な高次ロジックに基づいていることが、より強く認識されていく。それは、彼が以前漠然と感じていた「才能」とは異なる、「技術的な基盤」、あるいは「構造」としての「ナイトメア」の片鱗だった。お嬢様の怠惰の裏に、このような圧倒的な「機能」が存在するとは。シエルの中に芽生えた「疑問」は、もはや単なる好奇心ではなく、彼の存在意義そのものに関わる、深淵な探求へと変わりつつあった。
窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。排気ガスの匂いや、クラクションの不規則な音が、セレーナの城塞には届かない。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率が平均7.2%に改善された」というニュースが、無機質に表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。そのコントラストは、セレーナの完璧な日常の、ひび割れが、より深く、より明確になっていくことを示唆していた。そして、そのひび割れは、セレーナ自身が、意図せずして外界へと手を伸ばすきっかけとなるのだ。
シエルは、お嬢様の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。彼の完璧な執事としてのシステムは、すでに次の「無駄の排除」へと、静かに、そして容赦なく動き始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます