第6話 転売の闇と、お嬢様の不満
セレーナの眉間に刻まれた皺は、前話でのわずかなものから、一層深く、確固たるものとなっていた。ゲームの起動画面を遮って飛び込んできた、転売に関するニュース速報の残響が、寝室の空気に貼り付いているかのようだ。それは、彼女の「働いたら負け」という絶対的な哲学が、得体の知れない「無駄」によって侵害された事実を、否応なしに突きつけていた。完璧な日常に生じたこの亀裂は、セレーナにとって、決して許されない侵食だった。彼女の脳内では、転売行為がもたらす予測不能なノイズが、彼女の幸福度を著しく低下させていることを示し、システムは即座に「緊急介入」を促すシグナルを発していた。
「シエル」
セレーナの声は、氷のように冷たく、その感情ログは「不快感:最高レベル、介入必要性:最緊急」を示していた。それは、ただ命令を待つ声ではない。絶対的な支配者の、静かなる宣戦布告だった。
「なぜあなたは、この程度の事態を予測できなかったの? 私の怠惰な時間を奪うなんて、執事失格よ。このゲームをプレイできないなら、私のストレスは計り知れないわ。私の幸福度が著しく低下するわ」
シエルは、セレーナの言葉の厳しさに、内心でわずかな動揺を感じた。彼の完璧な執事としてのシステムは、お嬢様の感情の揺れを正確に検知し、その原因を即座に特定する。そして、その原因が自身の「予測」の甘さにあると判断し、自己診断ログに「エラー:予測不足、対応能力:要向上、優先順位:最優先」と記録した。彼の脳裏には、過去の膨大なデータが瞬時に展開されるが、これほどまでにセレーナの感情を揺さぶる「無駄」は、前例がなかった。
「申し訳ございません、お嬢様。彼らの手口は巧妙で、一般的なシステムでは検知が困難かと存じます。転売を行うボットは、人間と寸分違わぬ挙動を模倣しており、現行の監視システムでは、その巧妙さを見抜くことが極めて難しい状態にございます」
シエルは、瞬時に集約した転売サイトの情報を壁一面のディスプレイに表示させた。そこには、正規価格の数倍、時には十数倍の価格で出品されたゲームの画面がずらりと並び、その背後には、ボットによる組織的な買い占めの証拠が、論理的に、そして無情に羅列されていた。それは、社会のシステムを食い物にする、巨大な闇の存在を示唆していた。
「一般がどうしたというの? まったく……私の平穏な怠惰を邪魔する者がいるなんて許せないわね。シエル、あなたはそれを止められないの? 私の平穏な生活を脅かす者は、即刻排除すべきだわ。効率性の観点からも、彼らは存在自体が『無駄』よ。社会の癌だわ」
セレーナの瞳の奥に、いつも以上の鋭い光が宿る。それは、単なる怒りの光ではない。彼女の脳内では、転売行為の構造が瞬時に解析され、その行為が持つ経済的・社会的な「非効率性」が、極限まで強調されていた。それは、まるで完璧なプログラムの中に、許容できないバグが混入したような、純粋な嫌悪感だった。この「無駄」を排除したいという初期衝動が、彼女の表情の端々に、冷徹な決意として表れている。
「現行法では、現状、有効な手段は……」
シエルの言葉を遮るように、セレーナの静かな、しかし有無を言わせぬ声が響いた。その声には、彼のあらゆる反論を封じる、絶対的な意志が込められていた。
「現行法? そんなものは、私には関係ないわ。私の快適さを脅かす者は、まさに『敵』だわ。シエル、この転売屋に関する情報を全て集めてちょうだい。詳細に、漏れなく、根こそぎよ。彼らの存在は、私の怠惰な日常の欠損と判断するわ。そして、その欠損は、私の許容範囲を完全に超えている」
セレーナの言葉は、絶対的だった。彼女の瞳の奥に宿る鋭い光は、もはや単なる苛立ちではない。それは「非効率な存在」を認識し、その排除へと向かう、彼女の内なるシステムが駆動し始めた証だった。シエルは、お嬢様のその揺るぎない決意に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。それは、人間的な恐怖とは異質の、システムの限界に触れたような感覚だった。
(お嬢様は、これを「敵」と認識された。その言葉の重さは、計り知れない。私ではどうすることもできないこの状況を、お嬢様は…ご自身で解決なさるおつもりか? しかし、その方法は、一体…? 私の完璧な知識をもってしても、予測ができない…)
シエルの胸中に、セレーナの未知なる側面に触れることへの畏敬と、彼女の行動がもたらすであろう「結果」への、わずかな不安が交錯する。彼の完璧な執事としての使命感が、お嬢様のこの「不快」を排除することに全力を傾ける方向へと、強く傾き始めた。
窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。排気ガスの匂いや、クラクションの不規則な音が、セレーナの城塞には届かない。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率が平均7.2%に改善された」というニュースが、無機質に表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。そのコントラストは、セレーナの完璧な日常の、ひび割れが、より深く、より明確になっていくことを示唆していた。そして、そのひび割れは、彼女の「怠惰」を揺るがす、次なる「面倒事」の予兆を、静かに、だが確実に孕んでいたのだ。
シエルは、お嬢様の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。彼の完璧な執事としてのシステムは、すでに次の「無駄の排除」へと、静かに、そして容赦なく動き始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます