第5話 ゲームの欠損と、予測不可能な「不快」

その日、セレーナの城塞には、いつもとは異なる種類の期待感が、静かに、しかし確かに満ちていた。カレンダーの今日の欄には、手書きで小さく「レジェンダリークエスト12」と記されている。待望の人気ゲームの発売日だ。彼女の脳内では、すでにゲームのダウンロード完了を示すシグナルが正常であることを確認し、起動準備も万全。シエルが事前に関連情報も最適化済みだと報告していたこともあり、最高の怠惰なゲームプレイを享受できるはずだった。セレーナにとって、ゲームは単なる娯楽ではない。それは、外部との接触を最小限に抑えつつ、最大限の精神的充足を得るための、完璧に設計された「怠惰システム」の重要な構成要素だった。そのシステムに、微細な狂いもあってはならない。


「シエル、今日のゲームは完璧よね? 私はもうプレイする準備万端なのだけど。最高の怠惰を享受できるはずよ?」


セレーナの声には、わずかに高揚が混じっていた。その声の響きは、このゲームに対する彼女の期待値が、脳内で最高レベルに達していることを示している。シエルは、その期待に応えるべく、完璧な笑顔で応じた。彼の表情には、一切の曇りがない。


「はい、お嬢様。万全でございます。本日午前零時にダウンロードが完了し、起動準備も整っております。お嬢様のゲームプレイの最適化に寄与できるよう、関連情報も事前に処理済みでございます。最高の『無駄のない』プレイをご体験いただけます」


シエルの言葉は、セレーナの期待を裏切らないものだった。彼女はゆっくりと息を吐き、視線を壁一面のディスプレイへと向けた。そこに映し出されるはずの、色鮮やかなゲームの起動画面。彼女の脳裏には、既に広大なゲームの世界が広がっていた。


その瞬間だった。


壁一面のディスプレイに、突然、臨時ニュース速報が、けたたましい電子音と共に飛び込んだ。ゲームの起動画面が、ノイズとともに掻き消される。セレーナの瞳の奥に、微かなエラー表示の比喩が点滅した。予期せぬ外部からの介入シグナルが、彼女の脳内システムに混信している。感情ログは、「期待値:高」から「不快感:微増」へと、急激な変化を記録していた。それは、完璧な水面に、石が投げ込まれたような衝撃だった。


『速報です。本日正午に予約開始された人気ゲーム「レジェンダリークエスト12」の初回限定版が、開始わずか1分で全サイト完売。すでに転売サイトでは定価の3倍以上の価格で出品が相次いでおります。』


アナウンサーの無機質な声が、セレーナの耳に直接響き渡る。その言葉を聞いたセレーナの表情は、みるみるうちに曇っていく。眉間に深く刻まれたわずかな皺が、彼女の内なる苛立ちを物語っていた。それは、怒りとも、悲しみとも違う、純粋な「非効率な事態」への嫌悪感だった。彼女の完璧な計画に、まったく存在しなかった要素が、突如として侵入したのだ。


「……は? 何かの間違いでしょう? こんなことがあり得るわけがないわ。私の計画に存在しない要素だわ。こんな非効率な事態、許されないわ。私の世界に、こんな無駄な『欠損』があってはならない」


セレーナの声には、普段見せない苛立ちが露わになっていた。ゲームは彼女の「怠惰な生活に欠かせない要素」であり、それが「転売」という、もっとも理解しがたい「無駄」な事象によって脅かされたことへの、根源的な嫌悪感がそこにあった。それは、彼女の完璧な城塞に、見えない侵略者が忍び寄り、基盤そのものを揺るがそうとしているかのような感覚だった。


シエルは、お嬢様の眉間の皺から、その「不快」の深さを読み取っていた。彼の完璧な執事としてのロジックに、この予期せぬ事態が、新たな「ノイズ」として記録されていく。彼の瞳は、ディスプレイに映し出されるニュース速報と、セレーナの静かに変化していく表情の間で、わずかに揺れていた。


(お嬢様の、この苛立ち……これは、単なる娯楽が奪われたことへの不満ではない。彼女の「怠惰」という哲学の根幹が、揺るがされようとしている。この「転売」という現象は、お嬢様の価値観にとって、許されざる『無駄』であり、『非効率』であり……何より、彼女の平穏な日常に、直接的な『不快』を投げかけている……)


シエルの思考の中では、この「転売」という事象の重要度が、急速に上昇していく。それは、昨日までの「些末な問題」から、最優先で対処すべき「面倒事」へと、その優先順位が書き換わる瞬間だった。彼の完璧な執事としての使命感が、お嬢様の不快感を排除する方向へと、強く傾き始めた。彼の脳裏には、この「無駄」を根絶するための、あらゆる方策が瞬時にシミュレートされ始める。


窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。排気ガスの匂いや、クラクションの不規則な音が、セレーナの城塞には届かない。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率が平均7.2%に改善された」というニュースが、無機質に表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。そのコントラストは、セレーナの完璧な日常の、ひび割れの一端を示唆していた。そして、そのひび割れから、新たな「面倒事」が、確実に彼女の世界へと侵食を始めていたのだ。


シエルは、お嬢様の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「ノイズ」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。彼の完璧な執事としてのシステムは、すでに次の「無駄の排除」へと、静かに、そして容赦なく動き始めていた。

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