第8話 怠惰のための介入、サイバーフィールドの起動
セレーナの瞳は閉ざされたままだった。しかし、その内なる意識は、既にシエルが収集した転売ネットワークの深部へと、音もなく、そして光よりも速く潜り込んでいた。彼の報告した膨大なデータは、彼女の頭脳の中で、瞬時に、そして完璧なまでに整理され、まるで無数の点が必然的な一本の「線」として結びつけられていくかのようだった。それは、単なる情報の羅列ではない。ネットワークの脆弱性、資金の流れの歪み、そして、転売屋たちの思考パターンまでもが、彼女の脳内で鮮やかに可視化されていた。彼女にとって、この「面倒事」は、完璧なシステムに発生したバグであり、一刻も早く排除すべき対象だった。
「お嬢様」
シエルが、次の指示を仰ぐように静かに声をかけた。彼の視線は、セレーナの顔に注がれている。その顔には、先ほどの苛立ちも、僅かな感情の波も、一切残っていなかった。ただ、究極の静寂と、深遠な集中だけが漂っている。それは、まるで嵐の前の静けさ、あるいは大いなる力が目覚める前の、息をのむような瞬間だった。
シエルは、セレーナの静かな呼吸に合わせて、室内の空調をわずかに調整した。彼の完璧な執事としてのロジックは、お嬢様が次に何を為すのか、具体的な予測までは至らない。だが、彼女の内に、何かが確実に「駆動」し始めていることを、彼は肌で感じ取っていた。それは、昨日までの微細な「ノイズ」の蓄積が、今まさに、一つの「現象」として具現化しようとしている予感だった。
その時だった。
シエルがわずかに視線を外した、そのコンマ数秒の間隙に、セレーナの右耳に装着されたニューラリンクが、かすかに、しかし確かに光を放った。ごく短い、しかし強力なデータ転送のシグナル。それは、肉眼では捉えられないほどの速度で、セレーナの意識がネットワークの深淵へと接続されたことを示していた。その光は、セレーナの顔の輪郭をわずかに照らし出し、一瞬で消え失せた。
セレーナの意識は、サイバー空間の広大なフィールドへと一瞬で飛び込んだ。彼女の脳内では、情報がまるで具体的な物質のように視覚化され、転売屋のネットワークが、絡み合った無数の「点」と「線」で構成された巨大な迷宮として映し出される。彼女は迷うことなく、最も非効率で、最も「無駄」を生み出している中枢へと意識を向けた。それは、まるで迷路の終点を知る者が、最短ルートを辿るかのような、迷いのない動きだった。
「(本丸は不快なノイズだらけね。直接触れるのは面倒だわ。周辺ノードで十分。まずは軽いジャブからね。重い動作は、私の思考リソースを無駄に消費する。私にとっての『働いたら負け』を脅かすのは、許容できないわ。私の快適さを奪う代償は高くつくわよ。彼らのデータ構造に最適な『非効率性』を埋め込んであげる)」
セレーナの思考が、まるで意思を持つ生体コンピューターのように、「無限増殖型カメレオンコード」を生成していく。それは、単なるウイルスではない。相手のシステム構造を自律的に学習し、最適な負荷をかけることで「無駄な混乱」を生み出し、機能不全に陥らせる、彼女の知性が編み出した究極の「無駄排除システム」だった。そのコードは、まるで生きた蛇のようにネットワークを這い、瞬時に転売屋たちのPCへと送り込まれていく。その動きは、無音で、不可視で、そして絶対的だった。
同時刻。
世界のどこかの、薄暗い転売屋の事務所では、けたたましいキーボードの音が突如として止まった。ディスプレイには、意味不明なエラーコードが瞬時に表示され、画面はフリーズ。マウスもキーボードも一切反応せず、まるで機械が命を失ったかのように静まり返る。一斉に停止したPCを前に、転売屋たちは顔を見合わせ、困惑と混乱の表情を浮かべていた。
「おい、どうした!?」「俺のも動かねぇ!」「なんだこれ、システムエラーか!?」
彼らの声には焦りが滲み、顔には冷や汗が流れる。それまで緻密に計算されたはずの彼らの「効率的なビジネス」が、不可解な「無駄」によって、根底から揺さぶられ始めていた。彼らは、自分たちのシステムが、ベッドの上の一人の令嬢によって、静かに、しかし確実に侵食されていることなど、知る由もなかった。彼らの目に見えているのは、ただ目の前の「機能停止」という現象だけだった。
窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。排気ガスの匂いや、クラクションの不規則な音が、セレーナの城塞には届かない。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率が平均7.2%に改善された」というニュースが、無機質に表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。しかし、その「効率」は今、セレーナの「怠惰のための介入」によって、静かに、だが確実に揺らぎ始めていたのだ。
シエルは、お嬢様の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。彼の完璧な執事としてのシステムは、すでに次の「無駄の排除」へと、静かに、そして容赦なく動き始めていた。彼は、この一連の出来事が、お嬢様の「ナイトメア」と呼ばれる現象の、始まりに過ぎないことを、まだ知る由もなかった。
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