第2話 朝食の最適化と、無音の空間
朝食の時間は、セレーナにとって、一日の始まりを決定づける重要な儀式だった。ベッドの上で微睡みから完全に覚醒しきれていない意識が、ふわりと持ち上がる。昨夜から最適な朝食メニューのデータが彼女の脳内で静かに構築され、今朝は特に、完璧なオムレツの食感が強く求められていた。シエルの完璧な給仕が、彼女の期待に寸分違わず応えることを、セレーナは当然のこととして受け止めている。彼女の「働いたら負け」という哲学は、単なる怠惰ではない。それは、あらゆる「無駄」を排除し、最高の効率と完璧な快適さを追求する、彼女自身の揺るぎない価値観から来ていた。その価値観が、朝食という単純な行為にすら、深遠な意味を与えている。
「シエル」
セレーナの声が、わずかに期待を含んで響いた。その声に応えるように、シエルは音もなくワゴンをベッドサイドに滑らせる。銀の蓋が静かに持ち上げられると、ふわふわとした黄金色のオムレツと、彩り豊かな野菜が並んだプレートが姿を現した。食器が触れ合う微かな音すら立てず、シエルはフォークをセレーナの手に渡す。その一連の動作には、熟練の職人のような滑らかさと、一切の無駄がない。
セレーナはゆっくりとフォークを口元に運び、一口、味わった。舌の上で溶けるような柔らかさ、卵の繊細な甘み、そして、ほんのわずかなバターの香り。それは確かに美味しかった。しかし、彼女の脳内では、即座に食感のデータが過去の理想データと照合され、微細な誤差が検出される。完璧の基準は、常に更新され続けるのだ。それは、まるで精巧な天秤が、ごくわずかな重さの違いを感知するかのようだった。
「このオムレツ、もう少しふわふわだと、口に運ぶ労力が減るのだけど。食感の最適化は、私の咀嚼効率に直結するわ」
セレーナの言葉に、シエルの表情は揺らがない。だが、彼の内では、ご令嬢の微細なフィードバックが、彼の持つ膨大なデータに新たな指標として刻み込まれていく。彼は、この小さな誤差が、セレーナ様の「働いたら負け」という哲学において、いかに大きな「無駄」として認識されているかを理解していた。それは、単なる「味」の好みではなく、「効率」という彼女の根源的な価値観への挑戦なのだ。
「申し訳ございません。次回はさらに微細な泡立てを試みます。セレーナ様の咀嚼効率向上、ひいては幸福度への寄与は私の最重要課題でございます」
シエルは完璧な笑顔で応じた。彼の声は穏やかだが、その言葉には、ご令嬢のどんなに細かな要求にも応えようとする、執事としての絶対的な忠誠と、自身の性能を極限まで高めようとするプロ意識が込められている。同時に、彼の中で昨日のフルーツウォーターの一件がよみがえる。あの微細な温度差を感知したセレーナの能力。彼女の「面倒」という感覚が、常人の理解を超えるレベルでの「非効率」への嫌悪であることを、彼は改めて深く認識し始めた。それは、ある種の畏敬にも似た感情だった。
朝食は静かに進んでいく。窓から差し込む陽光が、セレーナの瞳に直接降り注ぐ。その光は、彼女の完璧な怠惰を妨げる、わずかな「ノイズ」となった。彼女の脳内では、最適な光量が瞬時に計算され、現状の光量が許容範囲を超えていることを示す警告が点滅する。快適さの追求こそ、彼女の「労働回避」の究極目標なのだ。
「シエル、今日の陽光はもう少し柔らかく調整できないかしら?目に当たるのが面倒だわ。完璧な光量でなければ、私の食事の邪魔になるわ。不快な光は私の集中力を低下させるから、これも一種の『無駄』よ」
セレーナの言葉は、まるで周囲の環境を自在に操るかのようだった。シエルは一瞬の間も置かずに頷く。彼の脳裏には、即座に最適な光量調整のためのプロセスが構築される。それは、屋敷に張り巡らされた複雑な環境制御システムの、ごく一部の機能に過ぎない。
「畏まりました。雲の配置を調整し、最適な光量を確保いたします。窓の外の鳥のさえずりも、高周波帯の音量を調整し、最適な心理的安らぎ効果を発揮させましょうか?」
シエルの提案に、セレーナはわずかに首肯した。その小さな動きが、彼にとって次の行動への完璧な承認となる。
「ええ、お願い。鳴き声すら私の思考の邪魔になるわ。発声自体も無駄に感じるもの」
セレーナは静かに目を閉じ、フォークを置いた。その完璧な静けさの中で、シエルの指示が屋敷のシステムへと送られていく。窓の外の陽光は、まるで命令に従うかのように、穏やかな黄金色へと変わっていく。鳥のさえずりも、耳に心地よい程度の音量に調整され、寝室は完璧な「無音の空間」と化した。それは、セレーナが求める究極の快適さ、すなわち「何もしないこと」を極限まで追求した結果だった。
セレーナの「働いたら負け」という哲学は、単なる怠惰ではない。それは、あらゆる「無駄」を排除し、最高の効率と完璧な快適さを追求する、彼女自身の揺るぎない価値観から来ていた。そしてシエルは、その哲学を守り抜くことこそが、彼の執事としての存在意義であることを、改めて確信した。ご令嬢の求める「完璧」は、彼自身の技術と献身によって、日々磨き上げられていくのだ。
シエルの胸に、昨日のフルーツウォーターの一件に続き、新たな「ノイズ」が生まれた。セレーナの「無駄」への異常なまでの感度。それは、彼がこれまで経験したどの人間とも異なる、ある種の「超越性」を秘めているように感じられた。彼女の怠惰の裏には、常人の理解を超える、深遠な「効率」の概念があるのではないか。その疑問が、シエルの完璧なロジックの中に、静かに、しかし確実に、新たな探求の火を灯した。
屋敷の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率が平均7.2%に改善された」というニュースが、無機質に表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。そのコントラストは、セレーナの完璧な日常の、ひび割れの一端を示唆していた。
シエルは、ご令嬢の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます