働きたくないお嬢様の多忙な日々 ― 並ばせるまでして手に入れたお茶請け美味しいですか? ―
五平
第1話 ベッドの上の城主と忠実な騎士
朝の訪れは、セレーナにとって常に、抗いがたい侵略者のようだった。窓から差し込む朝日の細い筋が、分厚いカーテンの隙間から漏れ出し、白いシーツの上に静かな光の帯を描く。そのわずかな光が、彼女の閉じた瞼をかすめるたび、まだ深く沈み込んでいる意識の底で、微かな抵抗が生まれる。まどろみは甘く、温かいシーツの海は、全身を優しく包み込む。このまま永遠に、この心地よい暗闇の中で漂っていたい。そう、彼女の身体は切望していた。世界がどんなに喧騒に満ちていようとも、このベッドの上だけは、彼女にとって絶対的な城塞なのだ。
「……シエル」
喉の奥から、蜜のようにとろりとした声が、寝室の静寂を破った。それは、鳥のさえずりよりも小さく、風の囁きよりも儚い。だが、その一言に込められた意味を、シエルは寸分違わず理解していた。セレーナの目覚めの合図。彼女の「怠惰」という至高の哲学を守るための、一日の始まりを告げる号令だった。
コンマ数秒の間も置かず、ノックの音とともに、扉が静かに開かれる。音もなく、シエルが部屋へと入ってきた。彼の足音は、まるで絨毯に吸い込まれるかのように無音で、その存在はただ、空気の微かな流れでしか感じられない。
「セレーナ様、午前七時でございます。本日も最高の朝でございますよ」
シエルの声は、まるで精密に調整された機械のように、完璧な落ち着きと、しかし暖かさを帯びて響く。その声を聞くと、セレーナの意識は少しだけ浮上する。しかし、ベッドから出るという「労働」への抵抗感は、依然として彼女の体をがんじがらめにしていた。頭の中では、今日の最適な活動スケジュールが自動的に構築されつつあるが、ベッドからの離脱という最初のステップで既に、予測されるエネルギー消費量が幸福度の閾値をわずかに下回っている。
「最高の朝? 馬鹿なことを。私にとって最高の朝は、永遠の眠りの中で迎える朝だわ。二度寝こそ、最高の省エネなのだから。労働なんて、私の辞書には存在しないもの」
セレーナの言葉には、抗議と、それから、子供のような純粋な甘えが滲んでいた。シエルは、そんな彼女の真意を正確に読み取り、表情一つ変えずに言葉を続けた。
「それは残念ながら、まだ遠い未来かと存じます。まずは体温上昇による覚醒効率を考慮し、特製のフルーツウォーターをご用意いたしました。温かいお飲み物が、セレーナ様の今日の最良のスタートを保証いたします」
「フルーツウォーター」、という響きが、セレーナの意識を僅かに覚醒させた。喉の渇きを感じ始めていたこともあり、その提案は、彼女にとって抗いがたい魅力を帯びていた。頭の中に描かれる冷たいフルーツウォーターのイメージが、微かな渇望を生む。しかし、グラスを取るためだけに腕を伸ばすことすら、今の彼女には「無駄な労力」に思えた。わずかな筋肉の動き、それが生み出すエネルギー消費。それは彼女の「働いたら負け」という哲学に、小さなヒビを入れる行為なのだ。
「ええ、できればこのまま口元まで運んでくれるかしら。私の腕を動かすエネルギーすら無駄だと感じるの」
シエルの完璧な動作は、予測を裏切らない。彼は寸分の狂いもなくグラスを傾け、セレーナのわずかに開かれた唇に、冷たく瑞々しいフルーツウォーターを届けた。ごくりと喉を鳴らすと、体中に爽やかな香りが広がり、微睡んでいた思考が、少しずつ覚醒していく。その一連の流れるような動きは、彼女にとって最高の効率性であり、最高の「無駄の排除」だった。
「ご苦労様。完璧だわ、シエル。やはりあなたは私にとって、最高の必需品ね」
セレーナは満足げに微笑んだ。その言葉は、シエルに対する純粋な評価であり、同時に、彼女自身の「働いたら負け」という哲学を完璧に支える存在への、最大の賛辞だった。彼女の耳元に光るニューラリンクは、彼女の頭脳が常人離れした規格外の思考を巡らせていることを示唆していたが、シエルは決してそれに触れない。彼の役割は、セレーナ様の平穏な日常を、完璧に、そして無駄なく維持すること。それ以上でも、それ以下でもなかった。
シエルの内心では、わずかな葛藤が生まれていた。「ご令嬢のこの才能が、ただ怠惰のために…いや、この怠惰こそが、彼女の効率を極限まで高めているのか…?」彼の完璧な執事としてのロジックと、長年の経験が積み上げた膨大なデータは、セレーナの常識外れの思考に、いつも微かな波紋を広げていた。
その波紋が、ごくごく微細な「ノイズ」を彼の思考に発生させた、その時だった。
「シエル」
セレーナの声が、いつもよりもわずかに、しかし確実に低く響いた。その声に、シエルの内に生じた波紋は一瞬で収まり、彼自身でも意識しないうちに、わずかに体が強張る。彼が差し出したフルーツウォーターのグラスの縁に、ほんの微かな、だが確かに感じられるほどの氷の粒が付着していた。普段なら、絶対にありえない。
「このウォーター、少しだけ、冷たすぎるわ。私の舌に、ごくわずかな、だが確かな違和感がある。最適な覚醒効率を阻害するほどの差ではないけれど、今日のあなたにしては、珍しいことね」
セレーナの視線はグラスに向けられたまま、その瞳には何の感情も映っていない。しかし、その言葉は、シエルにとって深淵を覗き込むような感覚を伴った。彼は確かに、今朝はセレーナの体調を考慮し、普段よりもわずかに低い温度でフルーツウォーターを用意した。それは彼のAIとしての最適解であり、セレーナの過去の生理データから導き出された最善の判断だったはずだ。だが、セレーナは、その微細な「違い」を感知した。
「申し訳ございません、セレーナ様。直ちに調整いたします」
シエルの声には、わずかな動揺が混じった。彼のAIとしての完璧な自己認識に、初めて亀裂が入るような感覚。セレーナはそれ以上何も言わず、ただ静かに次の指示を待っている。
(この微細な差を、ご令嬢はどのように……? まるで、私の思考のプロセスまで見透かされているかのようだ。この現象は、私の知るあらゆる技術の範疇を超えている。これは果たして、才能と呼ぶべきものなのか、それとも……?)
シエルの完璧な執事としてのロジックは、セレーナの常識外れの認知能力に、静かに、しかし確かな「疑問」というノイズを刻みつけていた。
その頃、世界のどこかのニュース番組では、とある都市の市民生活における「義務労働率が平均7.2%に改善された」と報じるテロップが、無機質に流れていた。セレーナの城塞の外の世界では、日々、異なる基準の「効率」が追求されていることを暗示するかのように。
シエルは、ご令嬢の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。
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