第3話 昼下がりの読書と、ページをめくる指
昼下がり、セレーナの城塞である寝室には、柔らかな午後の光が満ちていた。朝食の完璧な余韻に浸りながら、彼女はベッドに深く身を沈めている。今日の気分は、読書。シエルが完璧に選りすぐった、厚手の装丁が施された最新の小説が、彼女の目の前に開かれていた。しかし、セレーナは本に直接触れることすらせず、ただ視線を活字の上に滑らせるだけだ。彼女の「働いたら負け」という哲学は、物理的な接触という最小の労力すら排除することを求めた。
シエルは、セレーナのわずかな視線の動きを感知しながら、完璧なタイミングでページをめくる。その指先の動きには、紙の擦れる音さえ感じさせないほどの精密さがあった。セレーナの脳内では、物語の展開が驚異的な速度で解析され、登場人物の感情の機微、複雑な伏線、そして結末に至るまでの複数の可能性が、瞬時にシミュレートされていく。
「この主人公、なぜこんなに無駄に動くのかしら? もっと効率の良い解決策があるはずなのに。時間の無駄だわ。私なら三行で解決する問題を、なぜわざわざ十ページもかけているのかしら。無駄な文字を読むのは、精神エネルギーの浪費よ」
セレーナの声には、わずかな苛立ちが混じっていた。物語の登場人物の非効率な行動が、彼女の完璧な思考の流れに、わずかなノイズを生じさせている。しかし、それは決してネガティブな感情ではない。むしろ、彼女の「効率」という価値観が、物語の「非効率」な部分に反応している証拠だった。
シエルは、ご令嬢の言葉に含まれる「非効率への嫌悪」を理解しつつも、執事としての役割を全うするために、人間的な視点から静かに言葉を返した。
「物語の展開上、読者の感情移入を促すためには、多少の遠回りも必要かと存じます。人間の感情は、必ずしも最短ルートでは動かないものですから」
「読者の感情? そんな非効率で面倒なもの、私には理解できないわ。シエル、今のページ、もう少し最適な明度に調整できないかしら? 目が疲れるのが面倒だわ。視覚情報の最適化は、私の読書効率を上げるわ」
セレーナは静かに目を閉じた。彼女にとって、視覚から得られる情報もまた、完璧に最適化されるべき「データ」なのだ。光のわずかな揺らぎや強弱が、彼女の脳の演算リソースを無駄に消費することを嫌悪する。
シエルは一瞬の間も置かずに頷く。彼の脳裏には、瞬時に寝室の照明システムが起動し、太陽光と人工光が混じり合う最適な明度が計算される。同時に、ご令嬢の視覚的な快適さを極限まで高めるための、もう一つの提案を口にした。
「かしこまりました。最適な明度に調整いたします。目薬も、涙腺の潤滑油としての機能を最適化するため、最適な温度でご用意いたしましょうか? セレーナ様の瞳の潤いを保つことで、瞬きによるわずかな情報遮断も回避できるかと」
セレーナは、その提案にわずかに満足げな笑みを浮かべた。
「ええ、お願い。瞬きすら、私の思考の流れを一時的に中断させる『無駄』だもの」
その言葉に、シエルの中にごくわずかな、しかし明確な動揺が走った。瞬きすら無駄と断じるご令嬢の思考。それは、彼がこれまで理解してきた「効率」の概念をはるかに凌駕していた。彼の完璧な執事としてのロジックの中にも、「人間」としての感覚が、微かなノイズのように囁きかける。
(この方は、どこまで「無駄」を排除すれば満足なさるのだろうか? 私の理解は、まだご令嬢の思考の深淵には及ばない…しかし、その深淵こそが、私の探求心を掻き立てる…)
シエルは、セレーナの頭脳が尋常ではない、まるで世界をデータとして処理しているかのような感覚に改めて気づく。彼女の「面倒」の基準が、常人の想像をはるかに超えるレベルで設定されていることを認知し始める。それは、彼自身の「完璧」の定義すら揺るがしかねない、新たな「探求の対象」だった。
窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率が平均7.2%に改善された」というニュースが、無機質に表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。そのコントラストは、セレーナの完璧な日常の、ひび割れの一端を示唆していた。
シエルは、ご令嬢の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。
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