第12話 入学初日
入学初日。
朝の如月学園は、桜並木が淡いピンクの帳を垂らし、真新しい制服を纏った生徒たちの喧騒が満ちていた。校舎は無機質な近代建築にしか見えないが、陰陽寮直轄というその響きに違わず、敷地全体から放たれる結界の霊気が肌をビリビリと震わせる。
この霊気の質、古の時代から変わらぬ厳かさ。やはり、流石という他ない。かつての身であれば、この霊気すらも掌中に収められただろうか。そんな思考が、ふと脳裏をよぎる。しかし、もうそのような力は無い。今は、ただの凡人としてこの空気を吸う。それが、今の俺の現実だ。
「お兄様! 遅いです! 入学初日に遅刻なんて、お兄様の名に傷がつきます!」
振り返ると、昴がぷりぷりと頬を膨らませ、焦燥を滲ませながら立っていた。その姿は、俺が守るべき大切な存在の象徴だった。
「俺にそんなたいそうな名は無いよ」
もう芦屋道満という名は、過去の遺物だ。ことさら人目を引くつもりも、その名を再び背負う気も無い。今の俺の目標は、ただひたすらに平凡で地味な人生を謳歌すること。それだけが、俺の望みだった。
「……はあ。お兄様、あなたは前世うんぬんを抜きにしてもですね。もはや国に十二人しかいない国家特等祓魔調伏官である芦原秋房子爵の長男にして、入学試験トップ合格した私の兄なんです。存在自体がそれはもう特別なんですよ」
「それは俺の力じゃないだろ」
父さんの出世は、父さん自身が血の滲むような努力を重ねた結果だ。確かに、かつて師として俺が彼に授けたものはあったかもしれない。だが、どれだけ優れた師がいても、本人が非才で怠け者であれば、どれだけ鍛えても決してものにはならない。父は、その才と努力で道を切り拓いたのだ。
昴だってそうだ。幼いころから、誰よりも真摯に術と向き合い、懸命に研鑽を積んできた。彼らが積み上げてきたものに、俺の過去の栄光を重ねてはならない。彼らこそが、今の俺が心から誇れる家族なのだ。
「……全く。お兄様の自己評価の低さは何なんですか」
「客観的な事実だ」
霊力のほぼ全てを失い、かつての力は見る影もない。そして、入学試験すら補欠合格という現実。それが、今の俺の客観的な評価だ。芦屋道満が成績最下位。かつての自分を知る者が見れば、腹を抱えて笑うだろう。
だが、それを卑下するつもりは毛頭ない。これは、俺が選んだ新しい生なのだ。過去に囚われることなく、新しく切り替えて再出発する。それが、今の俺に与えられた使命だ。
平穏に、平和に、そして平凡に。波風立てず、静かに生きていく。それが、新しい人生における俺の絶対的な指針だった。しかし、その誓いは、入学初日に脆くも崩れ去ることを、この時の俺はまだ知らない。
というわけで、入学初日。
「霊力ファイブゼロの伝説をたたき出して合格たぁ、随分といい御身分だよなぁ、成り上がりの貴族様はよぉ!」
俺はいきなりクラスメートに絡まれていた。野太い声が教室に響き渡る。声の主は
「何やったんだ、お前。どう考えても霊力判定ぶっちぎりの最下位が入学できるなんておかしいだろ、ここは呪術陰陽術のエリートだけが入れる学校だぜ。どれだけの連中が涙飲んだかわかってんのかよ、あぁ?」
「……なるほど」
俺は荒上の言葉を静かに受け止めた。彼の言葉の裏に隠された、純粋すぎるほどの憤りが透けて見えた。
「つまり、お前は落ちた彼らのことを思い、その憤りをぶつけているというわけか」
偽りのない感情。それは、どこか懐かしい響きを持っていた。純粋な怒りというものは、時に道を誤らせるが、その根底には、正義や情といった尊いものが潜んでいる場合がある。なんとも、不器用で、だがどこか憎めない奴ではないか。
「……はっ!? 何言ってやがんだてめぇ!」
「お前の優しさも憤りもわかる。だが、結果は結果だ。そもそも俺は補欠入学。辞退した合格者がいたからこそ、俺はここにいるんだよ。文句があるなら、その人に言ってくれ」
「……どうせてめぇのパパの貴族様が金詰むなり脅迫するなりして追い落としたんだろうがよ、成り上がりの芦原子爵様がよお!」
……。
その言葉を聞いた瞬間、俺の意識の奥底に眠っていた何かが、僅かに揺らめいた。平穏を望む理性とは裏腹に、胸の奥で燻っていた炎が、ふと熱を帯びる。
……この男は、言ってはならない事を言った。
「今。お前、何と言った?」
俺は荒上を、ただ、静かに睨みつけた。その眼差しは、霊力の残滓などではない。ただ純粋な、家族を侮辱されたことへの怒りだった。かつての芦屋道満であれば、一瞬で相手をねじ伏せたであろう。だが、今の俺には、その力はない。それでも、この怒りだけは、抑えられなかった。
「俺の父は卑怯者じゃない。取り消せ」
「なっ……!?」
その言葉に、荒上は明らかに怯みあがった。彼の顔に走った動揺は、隠しようもなかった。
「な……なんだこいつの霊圧、こいつ本当に……ファイブゼロかよ……!?」
荒上の顔が一瞬で青ざめる。教室にいた他の生徒たちも、それまでのおしゃべりをやめ、ざわめきながらこちらをちらちらと見始めた。俺の霊圧など、もはや微々たるものだ。
だが、父親を侮辱されたことに対する、この魂の底からの怒りが、彼らにはかつての強大な霊圧のように感じられたのだろうか。あるいは、かつて芦屋道満と呼ばれた男の、本能的な威圧感が、微かに漏れ出たのかもしれない。
「お、お前……!」
荒上が後ずさりながらも、なんとか気勢を張ろうと声を張り上げる。その声には、先ほどまでの勢いはなく、むしろ恐怖が滲んでいた。
「霊力無しの分際で、なんだその目は! 舐めてんのか!?」
「舐めてるつもりはない」
俺は静かに、だがはっきりと答えた。その声には、一切の感情の揺れはなかった。
「ただ、俺の家族を侮辱するのは許さない。それだけだ」
教室の空気が一瞬で張り詰める。その重い沈黙の中、昴が横から、
「そう、 お兄様の言う通りです!」
と援護射撃をしようとするが、俺は静かに手で制した。これは、俺自身の問題だ。家族の名誉に関わること。それを、他の誰かに任せるわけにはいかない。
「へ、へっ! 許さないって、何だよ! やる気か!?」
荒上が強がり、拳を握りしめる。
「やる気はない」
俺は肩をすくめて一歩下がる。争いを望んでいるわけではない。ただ、彼の言葉が、俺の譲れない一線を越えた。それだけだ。
「ただ、言ったことは取り消してもらおう。父の名誉に関わる。俺はそれだけを求めてる」
「はっ、ファザコンかよ! ああいいぜ、取り消して謝ってやるよ、ただし俺に勝てたらの話だがな!」
荒上は腰を低くして構える。右手の拳を前に出しながらも、引いた左手には――呪符か。彼の焦りからか、その呪符の霊気の流れは、どこか乱れているように見えた。周囲の同級生たちが、慣れた様子で机や椅子を片付け、場を作る。この光景は、この学園では日常なのだろうか。荒上の普段の行いが窺える。
「貴族の坊ちゃんが、口だけでどこまでやれるか見せてもらうぜ!」
荒上が叫びながら、左手の呪符を素早く展開。指先で符を弾くように動かし、真言を唱えた。その動きは、確かに訓練されたものだった。
「
「ぐっ……!」
教室の空気が一瞬で重くなる。荒上の霊力が符を通じて増幅され、目に見えない圧力が俺を押し潰そうとする。不動金縛りの術か。動きを封じるための基本的な陰陽術だが、こいつの霊力だと、確かに結構な拘束力がありそうだ。
だが……所詮は学生レベル。かつての俺――芦屋道満が幾千と見てきた術式に比べれば、その術の構造はあまりにも単純で、隙だらけだった。
霊力で押し潰す、ただそれだけの稚拙な術。だが、その荒々しいまでの霊力の奔流は、ある意味で清々しいほどだった。嫌いではない。
霊気の流れを読み、術式を見る。彼の霊気の波紋、その歪み。どこに力が集中し、どこに綻びがあるのか。全てが、まるで掌を見るかのように鮮明に理解できた。……やはり稚拙だな。だが、その真っ直ぐな霊力の使い方は、むしろ好感が持てる。荒々しい術式だ、嫌いじゃないが。
俺は一歩踏み込み、足に僅かな霊力を流す。陰陽術の基本中の基本、霊力の流れを読み、相手の術式を弾く技術、奇門遁甲術。方位方角を読み解く技術を霊的に応用したものだ。これは、霊力の絶対量よりも、その流れを操る精妙さが問われる術。言うなれば、柔よく剛を制すの技術に近い。
「なっ!?」
荒上の呪符から放たれた呪力が、まるで泡のように弾け、霧散する。教室の生徒たちがどよめく中、荒上は目を丸くして後ずさる。彼の顔には、理解不能なものが目の前で起こったという困惑が色濃く浮かんでいた。
「てめえ、霊力ゼロのくせに……何!? 何したんだ!?」
「別に何も。ただの基本だ」
俺は服の埃をはたきながら答えた。本当に、かつての俺にとっては呼吸をするのと同義の、ごく当たり前のことだったからだ。
「だったらこっちだ!」
荒上がさらに声を荒げ、焦燥を隠すかのように別の呪符を取り出す。彼の額には、すでに脂汗が滲んでいた。
「
今度は不動明王火界咒の術式か。こいつ、本当に初日から派手にいくつもりだな。周囲の生徒たちの顔に、恐怖と興奮が入り混じった表情が浮かぶ。この術式は、教室で使うにはあまりにも危険だった。
「待ちなさい! 教室でそんな術式使ったら――」
昴が慌てて止めようとするが、遅かった。
荒上の呪符が赤く禍々しく光り、炎が渦を巻き、まるで生き物のように俺に向かって飛んでくる。教室の生徒たちが悲鳴を上げて机の下に隠れる中、俺は冷静に、ただ静かに動いた。その炎の熱は、かつて幾度となく対峙した、より強大な炎を思い出させたが、今の俺にとっては、取るに足らないものだった。
「――
炎は俺の剣印に絡めとられ、その形を保てずに水となり、そのまま床に落ちて蒸気を上げた。まるで、最初からそこに水があったかのように、自然な流れで。
「なっ……!」
「水剋火。水は火を征する五行相剋の理、それをただ実行しただけだ。基本だろう?」
俺の言葉に、周囲がざわめく。彼らには、目の前で起こったことが理解できないようだった。それはそうだ。霊力ゼロの人間が、詠唱もなしに術を打ち消すなど、常識ではありえないのだから。
「そりゃ理論上はそうだけどよ……」
「ていうかあいつ、詠唱してなかったぞ」
「お前あれできるか?」
「無理だっつーの、術構築がどんだけ早いんだよ」
「なんだよナルハヤって……」
「霊力ゼロであれは無理だろ……」
そしてそのざわめきに、昴はひたすらどや顔をしていた。その表情は、まるで自分の手柄であるかのように誇らしげだった。
まあ、それはいい。勝負は、これで決しただろう。俺は荒上へと、静かに視線を向け……
「勝負、あり!
この戦い、私、
金髪の少女が、まるで舞台役者のように、いきなり張り上げたその言葉に、
(……誰?)
クラス全員の心の声が、完璧に一致したのが分かった。読心の術を使わずとも、その場の空気がそれを物語っていた。
……いや、本当に誰だ。
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