第13話 橘と弓削

「は、はぁ!? 何だよ、急に!」


 荒上が驚きと苛立ちを隠さず、少女の方に振り返る。その瞬間、教室に満ちていた緊張感が一変する。張り詰めていた視線が一斉に、まるで磁石に引き寄せられるように、その金髪の少女――橘雛芽に集中した。彼女は一切の怯みを見せず、むしろ場を支配するかのように堂々とした態度で、腰に手を当てて胸を張っている。その姿は、この場の主役は自分だとでも言いたげな、計算された威厳に満ちていた。


「ふむ、自己紹介がまだでしたわね! 私は橘雛芽、陰陽寮の名門・橘家の次女をさせていただいておりますわ!」


 橘家。

 その名が発せられた途端、教室の空気はさらに揺れた。生徒たちの間に、さざ波のような動揺が広がる。ざわめきは瞬く間に大きくなり、驚きと畏敬が入り混じった声が漏れ始めた。


「橘と言えば……」

「四大公爵家の?」

「その橘ですわ!」


 橘は、周囲の反応を当然とばかりに受け止め、一層誇らしげにふんぞり返る。その仕草一つにも、生まれ持った格の違いを誇示するような傲慢さが滲んでいた。


「けっ、またお貴族様かよ」


 荒上は、長年溜め込んできたかのような嫌悪を込めて吐き捨てた。その視線は、雛芽の金髪を通り越し、彼女が纏う権威そのものに向けられているようだった。


「どうせてめぇも金の力で入ってきたクチだろうが、威張ってんじゃ……」

「その通りですわ!」

「ほら……って、はい?」


 荒上の口から、間の抜けた声が漏れた。その堂々たる、あまりにも予想外の肯定に、彼の怒りの勢いは完全に削がれ、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。


「私もそこの彼と同じく補欠入学組ですわ!」

「な……じゃあてめぇ、合格者を金で……!」

「そんなことしていませんわ!」

「じゃあ実家の力で脅して辞退させて……」

「そんなみみっちいこともいたしません! 大金を積んで合格人数を一人増やしてもらいましただけですわ!」

「金の力の規模が違う!」


 俺もまた、その言葉に内心で瞠目した。ていうかそんなこと可能なのか。この国の陰陽寮は、四大公爵家の一つである橘家の財力の前には、いとも容易く規則を曲げるのか。すごいな四大公爵家というものは。

 いやむしろ公爵家の令嬢が普通に受験受けてた方がむしろ驚きだ。俺のようななりあがりの子爵と違い公爵家ともなれば、受験せずとも入学することなど可能だろうに。


「ふっ……大口スポンサーというのは存外好き勝手出来るものですのよ?

 そう、この世はお金が全て!

 金があれば見鬼の力が無くとも呪具のコンタクトで見鬼にもなれますし、霊力からっけつでも呪具フル装備で底上げが可能!

 お金があればこの呪術界の頂点に立つことも可能なのですわ!」

「お、おう、そうですね」


 荒上もまた、その圧倒的なまでの金の力と、それを臆面もなく語る雛芽の迫力に完全に気圧されている。

 この女、さらりと自分が見鬼でもなければ霊力も低いと自白しているのか。それとも、この上なく巧妙なブラフなのか。その真意は、俺にはまだ、ちょっと見通せないな。


「よろしいですわ!」


 何が「よろしい」のか、俺には皆目見当もつかない。どうしよう、この勢いの強さには、いささか強引すぎてついていけぬ。俺が生きていた平安の世にも、このような破天荒な貴族令嬢は存在しなかったぞ。


「さて、荒上孝輔。貴方の負けは明白ですわ。芦屋秋斗は霊力ゼロにも関わらず、貴方の術を完璧に破りました。陰陽術の基本を侮った貴方の落ち度です。さあ、約束通り、芦原子爵への侮辱を取り消しなさい!」

「ぐっ……!」


 荒上は、屈辱と怒りに顔を歪ませ、奥歯を強く噛みしめた。握りしめた拳は、関節が白くなるほどだ。しかし、彼はやがて観念したように、大きく息を吐き出した。その吐息には、諦めと、そして僅かながらも潔さのようなものが混じっていた。


「……くそ、わかったよ。少なくとも実力は本物だってのはわかった、そんな奴が親の七光でいんちき入学なんてやるはずねえな。

 芦原子爵のことも、悪く言って悪かった。取り消す」


 その言葉が教室に響くと、再びどよめきが起こった。荒上という男が、これほど素直に非を認めるなど、誰一人として想像していなかったのだろう。

 なるほど、この男は粗暴で短気な面ばかりが目立つが、根は意外なほどに真っ直ぐなタイプだな。俺は、その不器用な潔さに、密かに好感を抱いた。嫌いじゃない。


「それでいい。もうこの話は終わりだ、荒上」

「ふん、覚えてろよ、芦原! だけど次は絶対に負けねえ!」


 荒上が捨て台詞を吐きながら席に戻ると、雛芽は心底満足そうに微笑んだ。その顔には、まるで全てが自分の手柄であるかのような達成感が満ち溢れている。


「ふふん、さすがは私ですわね!」

「おめぇは何もやってねえだろうが!」


 荒上が叫んだ。その叫びは、先までの張り詰めた空気を打ち破り、教室に一瞬の笑いを誘った。しかし、荒んだ雰囲気が、これほど唐突に喜劇のような様相を呈するとは……。


「あの橘家の御令嬢、天然か策略かはわかりませんが、中々ですね」


 隣で昴が冷静に分析する。確かにその通りだ。彼女の介入がなければ、事態はもっと泥沼化していたかもしれない。


 教室の空気がようやく落ち着き始めた。橘雛芽の派手な介入で、荒上孝輔との騒動は一応の決着を見た。しかし、俺――芦原斗真の周囲には、まだ熱を帯びた好奇心と、これから何かが始まるかのような挑戦的な視線がチラチラと集まっている。

 まったく、平穏無事に生きるつもりが、この如月学園に入学した初日からこれだ。先が思いやられる。


 その時、教室の後ろ、扉の近くから、澄んでいながらもどこか鋭い響きを持った別の声が響いた。


「へえ、面白いね、芦原斗真。霊力ゼロでそこまでやれるなんて、ちょっと興味湧いてきたよ」


 振り返ると、そこに立っていたのは、すらりとした長身で、知的な雰囲気を纏うポニーテールの少女だった。彼女は腕を組み、まるで品定めをするかのように俺を見つめている。


「お兄様へ興味を持つのは大変お目が高いことで喜ばしいですが、お兄様に話しかけるならまず私に話を通してくださいませんと」


 瞬時に、昴が俺の前に滑り込むようにして割って入った。その顔には、見慣れた警戒の色が浮かんでいる。


「そうか失礼。君は入学式で見たな、成績トップ入学の新入生代表、それも飛び級だったか、すごいな芦原昴くん」

「すごいのはお兄様です。私はお兄様のおまけにすぎません」


 昴の返答は、いつものお兄様至上主義で、話が微妙に成り立っていない気がする。


「それで、あなたは?」


 俺が問いかけると、少女は軽く肩をすくめた。


「ああ、自己紹介が遅れたな。

 私の名は弓削葵ゆげあおい。陰陽寮の名門、弓削家の長女だ。よろしくね、芦原斗真。それと、昴くんも」


 ポニーテールの少女――弓削葵が軽く手を振って微笑んだ。その声は落ち着いているが、その奥には、獲物を見定めた猟師のような、明確な挑戦的な響きが隠されていた。


 弓削家といえば、陰陽博士弓削是雄を輩出したことでも有名な、賀茂家や土御門家と並ぶ陰陽術の名門だ。四大公爵家の一つではないが、術式の精緻さと実戦での実績では一歩も引かない、古くからの名家中の名家。

 だが千年後のこの時代では、没落していたと記憶しているが……。俺の記憶が正しければ、その血筋は細く、過去の栄光は遠い昔の話となっていたはずだ。しかし、目の前の少女からは、そんな没落の影は微塵も感じられない。むしろ、その瞳には、かつての弓削家が持っていたであろう誇りと自信が宿っている。


「弓削葵……伯爵家御令嬢ですね。覚えておきましょう」


 俺は軽く頷き、彼女の視線を受け止めた。その視線は、俺の奥底を見透かすかのように鋭い。昴はまだ警戒を解いていないのか、俺の前に立ちはだかったまま、弓削葵を微妙に睨んでいる。


「お兄様に用なら、私を通してくださいって言いましたよね?」


 昴の声には、明確な苛立ちが混じっていた。葵はそれを見て、小さくくすっと笑い、まるで子供をあやすかのように肩をすくめる。


「はいはい、わかったよ、昴くん。別にケンカ売りにきたわけじゃないって。

 ただ、霊力ゼロであの荒上を圧倒するなんて、ちょっと気になっただけさ。彼、中学では名の知れた陰陽師ヤンキーだったんだよ?

 ねえ、芦原斗真、さっきの術のカウンター、どうやったの? あれ、普通の基本じゃないよね?」


 葵の問いかけに、俺は内心で首を傾げた。俺にとっては、あれこそが陰陽術の「基本も基本」なのだが。現代の術師には、それが理解できないのか。


「ただの読みとタイミングだよ。たいしたことじゃない」


 俺はそっけなく答えるが、葵の目はますます興味深そうに光る。その瞳の奥には、俺の言葉の真偽を探るような、知的な探究心が燃えている。


「ふーん、謙遜? それとも本当にそれだけ? どっちにしろ、面白そうだから、今度模擬戦で試してみたいな。私、弓削家の術式、けっこう自信あるんだよね」

「だから、お兄様に話しかけるならまず――」


 昴がまた割り込もうとするが、俺は軽く手を上げて制する。


「昴、構わない。弓削、模擬戦はまた今度な。今日はもう十分派手な目に遭ったから」


 俺は苦笑しながら、これ以上の面倒事を避けるように席に戻ろうとする。だが、葵はそんな俺の思惑を見透かすようにニヤリと笑って追い打ちをかけた。


「逃げられないよ、芦原斗真。如月学園じゃ、目立った奴は放っておかれないんだから。覚悟しなよ」


 その言葉は、まるでこの学園の現実を突きつけるかのようだった。確かに、教室のあちこちから、先ほどとは違う種類の、期待と好奇に満ちた視線を感じる。どうやら、この学校の生徒たちは、平穏よりも騒ぎを、日常よりも非日常を好む性質らしい。まったく、平凡な生活を望んでいたというのに、これじゃ無理そうだな、と深いため息を吐きたくなる。 その時、教室のドアが勢いよく開き、それまでの騒がしさを一瞬で鎮めるような、教師の張りのある声が響いた。


「はい、みなさん! 席について! ホームルーム始めますよ!」


 入ってきたのは、若くはつらつとした女性教師だった。袖に陰陽寮の紋章が輝く制服を完璧に着こなしている。彼女は教壇に立つと、軽く咳払いをして教室全体を見渡した。その視線は、一瞬にして生徒たちの心を掌握するような、確かな威厳を宿している。


「私は担任の志波博美しばひろみ。よろしくね。

 さて、初日からずいぶん賑やかだったみたいだけど、特に……芦原斗真くん?」


 志波先生の視線が、教室の喧騒の中心にいた俺に、まるで精密な照準を合わせたかのように突き刺さる。その瞬間、教室中の目がまた一斉に俺に集まる。まるで、全ての責任が俺にあるかのように。


「気のせいです」


 俺は、できるだけ平静を装い、波風立てないように、努めて穏やかに答えた。俺は関係ないし、何も知らないのである、とでも言いたげに。


「橘雛芽さんから報告がありました。教室で呪術戦をやったそうね」

「私は術比べを挑まれたので応じただけです」


 俺は淡々と、感情を込めずに答えた。


「それで不動明王火界咒を、詠唱も無しにいなしたと」

「奇門遁甲術と五行相剋の理を応用しただけです」


 霊力を失った俺でも、千年の経験と磨き抜かれた技術があれば、この程度の術は対処できる。荒上の術式は単純で、動きも読みやすかったからこそ、やりやすかったというのもある。


「ふーん。霊力ゼロでそこまでできるなんて……あ、ごめんね悪気があったわけじゃないわ。でも面白い子ね。まあ、初日だから大目に見るけど、次からは教室で騒ぎを起こさないでね。いい?」


 志波先生は、にこやかな笑顔を浮かべながらも、その言葉には有無を言わさぬ、静かな圧力が込められていた。まるで、笑顔の裏に隠された、教師としての絶対的な権威を示すかのように。俺は小さく頷いて、ようやく自分の席に戻った。


「さて、ではホームルームを始めるわよ。まずはクラスの役割分担から――」


 志波先生が、何事もなかったかのように平静な声で話を進め始めると、教室はゆっくりと、しかし確かな足取りで通常の空気に戻っていった。

 だが、俺の背中に突き刺さるような視線は、まだ完全に消え失せてはいない。荒上の、悔しさを滲ませながらもどこか納得したような目。弓削葵の、底知れない興味を湛えた探求的な笑み。そして、橘雛芽の、なぜか全てが自分の手柄であるかのような謎の「ふふーんですわ」というどや顔。うむ、最後の奴だけは、やはり意味がわからん。


「お兄様、大丈夫です。私がついていますから」


 隣の席で、昴がそっと、しかし確かな意思を込めた小声で呟いた。その声には、俺への絶対的な信頼と、どんな困難にも立ち向かう覚悟が滲んでいる。俺は小さく笑って答えた。


「ああ、頼りにしているよ」

『わ、私めもずっと傍におりますゆえ!』


 そして、俺の意識の奥底からは、九重の健気な声が聞こえてくる。しかし九重、あの騒ぎの中で、一言も口を挟まず、手を出すこともなく、ずっと耐え忍んでいたとは……。その姿に、俺は静かに感嘆した。中々に成長したな。九重を父の傍につけていたのは、やはり正解だったようだ。この十五年、九重も色々と辛いことや学ぶことがあったのだろう。

 事実、もしあそこで九重が感情に任せて暴れていたら、事態はさらにややこしい、収集のつかない状況になっていただろうからな。

 いや、待てよ。もし俺が荒上の喧嘩を買わずに、ただ無視していたら、九重は果たしてあのまま耐えきれたのだろうか。

 ……。

 ありうるな、いや、確実にそうしていただろう。


『あ、ありませぬ』


 九重の焦ったような否定の言葉に、俺は確信した。絶対にそうなっていた。まさに紙一重であった。

 やれやれ、初日からこれとは……。俺の平穏な学園生活は、どうやら遠い夢になりそうだ。先が思いやられるな。

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