第11話 禁術書

 俺の名は芦原秋房。齢27。ピッチピチのおにーさんだが、死を一度経験した身としては、その響きにどこか虚しさを覚える。

 気がつけば、俺は見慣れぬ場所に立っていた。それは、言葉にすれば「古代中国の宮殿」としか形容しがたい、荘厳にして異様な空間。その圧倒的な威容に、魂が震えるような感覚に囚われた。


「ここはどこだ…………俺は、確かに」


 息子を護るために、魔物の凶爪にその身を晒し、そして……


『然り。汝は魔物の凶爪に倒れた』


 響き渡る声。その声の主を探して見上げれば、そこには想像を絶する威容が鎮座していた。

 漆黒の法衣を纏い、人の三倍はあろうかという巨躯。深紅の顔には鬼火の如き眉が燃え盛り、地獄の業火を映す双眸が爛々と輝く。耳元まで裂けた口からは、言葉一つで魂を裁くかのごとき威圧感が放たれる。「泰山府君」と刻まれた宝冠を戴き、右手に鉄杖、左手に生死簿を携えるその姿は、一睨みで罪業の全てを暴き出す――まさに畏怖そのものだった。


「え、閻魔大王……!?」


 どうしよう、と瞬時に恐怖が全身を駆け巡る。この世ならざる存在を前に、俺はただ震えることしかできなかった。


『否。我は閻魔王にあらず。泰山王――泰山府君なり』

「…………あ、人違いでしたか。そいつぁ失礼しました」


 反射的に頭を下げる。閻魔大王と泰山府君、習合され同一視されることもあるとはいえ、この状況で人違いとは。思わず苦笑が漏れるが、その場を取り繕うのが精一杯だった。


「…………で、俺は死んだってことですか?」


 最後の記憶が魔物の爪。他に考えようもない。だが、なぜ俺はここにいる?


「ま、死んじまったもんは仕方ねえ。十年前に一度死んだはずだしな。色々あって息子もできた、娘も生まれた。いい人生だった。悔いは……まあ、孫の顔見たかったな。斗真と昴の子供、絶対可愛いだろ。あと、もう一人か二人子供欲しかったな。出世は……めんどくせぇからいいや」

 走馬灯のように駆け巡る過去の記憶。満たされた人生だったと、心の底から思えた。しかし、僅かな未練が胸をよぎる。

『汝は死んではおらぬ』

「そうそう、死んでは……って、は?」


 その言葉に、思考が完全に停止した。マジかよ!? 泰山府君は、その巨大な頭を大仰に頷いた。


『正しくは、一度死んだ。即死である。されど汝の息子、芦原斗真は泰山府君祭を執り行った』

「――は!?」


 素っ頓狂な声が、荘厳な空間に響き渡る。泰山府君祭……魂に直接干渉する、禁忌の大呪術だ。まさかあのバカ、俺を生き返らせたのか!?どれほどの代償を支払ったというのだ……!まさか、あいつ……自らの命を……!?

『否』


 俺の胸中に渦巻く懸念を読み取ったかのように、泰山府君はゆっくりと首を振った。


『芦原斗真は自らの命を対価とはせず、霊力を捧げた』

「れい……りょく?」


 マジかよ。芦屋道満の転生体が持つ、あの底知れぬ強大な霊力、それを全てか!? それじゃあいつは、ただの知識に長けた人間になってしまったというのか。そこまでして……この俺を……。胸が締め付けられるような痛みが走る。くそっ。あのバカ、帰ったら一発殴って、そして、力の限り抱きしめてやる!


『さて』


 泰山府君が、厳かに告げる。


『汝の息子は我に供物を捧げた。よって汝は生き返る。ただし条件がある。それは――禁術書の――』





「泰山府君☆サイコーって全裸で町中踊り歩け!? んなバカな条件、できるかボケぇー!」


 俺は叫んだ。魂の底から湧き上がるような絶叫だった。


「…………」


 ちゅんちゅん、と雀のさえずりが耳に届く。ゆっくりと目を開けると、そこは慣れ親しんだ俺の自室。隣では、妻の茜が穏やかな寝息を立てていた。


「……なんだ、夢かよ」


 あの時の、鮮烈な夢。最後の部分があまりに荒唐無稽すぎて、思わず力が抜ける。全裸で踊るなんて、冗談じゃない。泰山府君はそんなこと言って無かったしな。あれに関しては単なる悪夢だ。

 だが、斗真が自身の霊力を捧げ、俺を死の淵から引き戻してくれたのは、紛れもない現実だ。夢の終わりは滑稽だったが、その核にある真実は、俺の心を深く揺さぶった。

 あいつを殴る気だったが、結局は抱きしめて、声を上げて泣いた。それは、斗真が俺を「本物の父親」と認めてくれた、何よりの証拠だったからだ。

 最初は、互いの利害が一致した「契約家族」。それが、いつしか俺はあいつを本当の息子だと思い、そしてあいつもまた、俺をそう思ってくれていた。その事実が、何よりも、むちゃくちゃ嬉しかった。


「……さて、今日も頑張るか」


 茜の安らかな寝顔に、今日を生きる英気を養う。ベッドから這い出し、まずは朝の訓練だ。息子から課せられた基本修行メニューは、一日たりとも欠かしたことはない。基礎が何よりも大事だと、身をもって知っているからだ。



 ◇


 陰陽寮本部の執務室。俺、芦原秋房特等調伏官のデスクには、報告書が山と積まれていた。


「ったく、雑魚妖魔の報告書ばっかで、目が滑るぜ。こんな書類仕事に追われるために、命を懸けてるわけじゃねぇんだがな」


 そうぼやいていると、コンコン、と控えめなノックが響き、部下の調伏官が二人入ってくる。俺の副官である佐伯藤次、30歳の真面目そうなメガネ男。そしてもう一人は、緊張でガチガチになっている新人らしき若造だ。


「芦原隊長! ご報告です!」


 佐伯が居住まいを正し、ビシッと敬礼する。その生真面目さに、少しばかりの苛立ちと、同時に頼もしさを感じる。


「よぉ、佐伯。堅苦しいのはいいから、さっさと話せ。俺は忙しいんだ」

「はっ。先日摘発した過激派陰陽教団『神影会』ですが、幹部から如月学園に関する情報を得ました」


 俺は眉を上げた。如月学園。それは、俺の愛しい子供たちが将来進学する予定の場所。穏やかな日常が、不穏な影に侵されるような予感がした。


「如月学園? ウチのラブリーな子供たちが進学する予定の学校じゃねえか。どんな情報だ?」


 佐伯が差し出した書類に目を通す。そこに記された内容は、俺の平静を揺るがすに十分だった。


「神影会残党が狙ってるのは、学園地下に封印された禁術書。平安時代に芦屋道満が封じた呪物で、藤原家がその封印を解こうとしてるという話です」


 その言葉に、俺は内心の動揺を必死に隠した。禁術書……それが本当だというのか? あいつ、そんな危険なものを残していたのかよ。後で斗真に直接聞いてみる必要があるな。

 しかし、前々から藤原の姫さんはやたらと「芦屋道満の生まれ変わり」に執着していた。斗真への疑惑は既に晴れていたはずだが、まさか、こんな形で過去の因縁が絡んでくるとは。


「わかった。引き続き残党への監視は続けてくれ。学園の方には俺が当たってみるさ。だが、くれぐれも無理はするなよ」

「了解しました。そして隊長、そろそろ記者会見の時間です」

「あー……」


 俺は頭を抱える。心底、面倒くさい。この役回りは、いつになっても慣れない。まるで、俺の日常が、常に舞台の上で演じられているかのようだ。ため息を一つ。それでも、やらねばならぬ。俺は立ち上がり、重い足取りで記者会見室へと向かった。



 ◇

「先日の六本木地下街妖魔テロ事件においては――」


 陰陽寮記者会見室。無数の報道陣のフラッシュが瞬き、その光が俺の目を焼く。それでも、俺は冷静を装い、淡々と説明を続ける。


「我々が確認した限り、犯行声明を出した過激派陰陽教団『神影会』は既に壊滅状態にあり――」


 質問が飛び交う。その一つ一つに、公的な顔で対応する。


『芦原氏は現場指揮を?』

「直接の現場指揮は行わず。ただし最終的な処理方針は私が決定しました」

『芦原氏の不倫疑惑ですが……』

「私は妻一筋です。ってなんだよオイ誰だその質問! ふざけたことを言うんじゃない」


 会見場に、瞬間的な笑いが起こる。俺は真顔で、しかし内心では怒りを込めて睨み返す。雰囲気が弛緩したのは良いことかもしれないが、俺の逆鱗に触れるな。茜よりも良い女など、この世のどこを探してもいるわけがないだろう。


『神影会の裏に芦屋道満が関わっている、という噂があるようですがどうなのでしょうか』


 ……その質問が、俺の心を抉る。芦屋道満。それは、俺の愛する息子、斗真の前世の名。だが、あいつがそんな所業に手を染めるはずがない。俺は、その事実を誰よりも知っている。


「芦屋道満を名乗る者は何人も確認されています。しかしいずれも模倣犯に過ぎないと我々は判断しています。真の芦屋道満の転生――それはあくまで噂だけでしょう。泰山府君祭は失われた秘術であり、平安の時代ならともかく霊和の現代では成功した者はいないのです」


 言葉を紡ぎながら、胸の奥で秘めた真実が重くのしかかる。俺の息子が、まさにその「失われた秘術」をもって俺を生き返らせたという事実。それは決して、公にできるものではない。


 とにかく、そんなこんなで記者会見は続いた。ああ、本当に面倒くさい。だが、この面倒さこそが、俺が生きている証なのだと、今はそう思うしかない。



 ◇

「禁術書? ……記憶にないですね」


 帰宅し、息子に直接尋ねてみた。斗真はあっさりと、知らないと答えた。拍子抜けするほどに。ああ、やはりデマだったか。そう結論付けようとした、その時。


「……ああ、いや。そもそも今の時代からしたら禁術に見えるだけかもしれないな」


 斗真が、何やら物騒なことを口にした。その言葉に、俺の胸に新たな波紋が広がる。


「どういうことだ?」

「要するに、今の簡略化・平均化された術と、昔の術は違うってことですよ。昔では常識だったものが、今では違う。そのギャップに、俺もずいぶん苦労しましたし」


 平安時代からいきなり霊和の現代に生まれ変われば、それも当然だろう。千年の時が、術の体系を、人々の認識を、いかに変質させてきたのか。その深淵を覗き見るような、不思議な感覚に襲われる。


「醍醐なんて今の霊和じゃ誰も作り方知らなかったですしね。それと同じです。まあ醍醐は当時も作り方は秘伝でしたけどね。術も同じです。当時は普通に備忘録として記した術の基本が、今では秘伝秘奥義扱いされてる……という事かも。父さんに伝えた術のいくつかは、現代の呪術書には乗ってなかったでしょう?」

「ああ、確かにな。あれには驚かされた」

「確かに俺はいくつかの手記は記した。例えば金烏玉兎集……」

「ん? それは安倍晴明が編纂した呪術書じゃねぇのか」


 金烏は太陽に棲む三本足の金の烏、玉兎は月に棲むウサギ。それは、気の循環を知り、日月の運行によって占う陰陽師の秘伝書だと伝わっている。唐の仙道である伯道上人から安倍晴明が譲り受けたものだと、歴史書には記されていたはずだ。


「そんなふうに伝わっているんですね」


 斗真は、どこか諦めたように言う。それは完全なでたらめだと。


「完全なでたらめではないんです。俺と晴明が共に伯道上人に師事をしていたんですよ。あいつとは同じ釜の飯を食った仲と言う奴です」

「……マジかよ」


 伝承では、安倍晴明と芦屋道満は不倶戴天の仇敵だったはずだ。晴明の父親と道満、二代続けてのライバルだったという伝説すらある。俺の知る歴史が、目の前でひっくり返されていく。


「千年も時が立てば、事実は物語と迷信に置き換えられ、真実は忘れられるものなんです。俺が父さんに教えた権神術も、どこの呪術書にも記載されていなかったでしょう?」

「確かにな。あれは強力な術だった」


 斗真の言葉に、深く頷く。俺が習得した術の数々が、現代の陰陽師たちにとっては未知の領域なのだ。それは、知識の継承がいかに脆いものかを物語っていた。


「金烏玉兎集は晴明と共著みたいなもんですね。ただまあ、こないだ書店で買って読んだけど、今流通している金烏玉兎集は色々と抜けてたり間違ったりしてる。千年の間に編纂された成れの果て、って感じですね」

「……待てよ。じゃあ、もしオリジナル、あるいは当時の写本なんかが見つかったら……」


 俺の言葉に、斗真は静かに、しかし確信を持って言った。


「……確かに、今の陰陽師からしたら、禁術書といっても差し支えないものかもしれないですね」


 なんてこった。つまり、神影会が狙う「道満の禁術書」とやらは、実在したのだ。そして、そこに藤原の姫さんも深く関わっているかもしれない。


 厄介な事にならなきゃいいんだがな、と。俺は、心の底からそう願わずにはいられなかった。息子の過去が、また新たな波乱を呼ぶ予感が、俺の胸に重くのしかかった。

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