第9話 新たなる日々

 それから四年がたった。


 十四歳。来年には元服だ。来年と言うか、あと数か月。それは、かつて思い描いた未来とは、あまりにもかけ離れたものだった。

 元服を果たせば、この仮初の温かい巣から立ち去ろう――そんな傲慢な、いや、無垢な考えは、今や遠い残滓と化した。今のこの身では、この家を出たところで、ただの小僧として生き抜くことさえ覚束ないだろう。


 四年前のあの日――泰山府君祭によって失われた霊力の代償は、想像を遥かに超え、俺の根幹を蝕んでいた。

 千年前の芦屋道満ならば呼吸するように操った式神召喚も、指先一つで築き上げた防御壁の形成すら、今の俺には途方もない困難だ。かつて『最強最悪の陰陽師』と畏れられた面影は、もはやどこにも見当たらない。


 だが、それでも――。


「斗真ァー! 飯だぞー!」

「はいはい、父さん」


 階段の下から父の声が響く。


「お前ももうすぐ十五歳なんだから、もっとしっかり食べないと! 霊力減ってるんだから体力は重要だぞ?」


 父の軽口に、俺は小さく肩をすくめてキッチンへ向かった。十四歳になった今も、父は変わらない。その言葉の端々から、俺を心底案じる温かさが伝わってくる。その気遣いがこそばゆく、しかし同時に胸の奥をじんわりと温める。

 母は柔らかな笑みを浮かべながら、手際よくテーブルに料理を並べる。見慣れた和風の献立。父の大好物である鮭の塩焼き。昴が好む卵焼き。そして――


「今日の味噌汁は斗真が好きなのね。大根と豆腐」

「母さんの味噌汁が一番だよ」


 俺の言葉に、母はふわりと照れくさそうに微笑んだ。その穏やかな光景が、俺の日常であり、何よりも守りたいものだった。


「そういえば昴は?」

「ああ、塾だよ。あの子、最近真面目でさ」


 父は箸を手に取る。


「昴も進路考えないとなあ。斗真はどうする? 霊力は戻ってきてるのか?」

「微々たるものだよ」


 正直に答えると、父は眉をひそめた。


 千年前の知識でどうにか補っているが、やはり足りない部分も多い。日々の鍛錬はもちろん続けているものの――あの日以来、大きな術は使っていない。


「父さん、心配しないでください。今の生活が気に入ってるんだから」


 家族と過ごす時間が何よりも大切だ。それを守れるなら、霊力なんて惜しくはない。

「昴ももうすぐ帰ってくるだろうし、みんな揃って食べようか」



「ただいま帰りました」


 玄関から落ち着いた声が響く。昴の声だ。扉の向こうで靴を脱ぐ音がする。


「おかえり、昴」


 リビングに入ってきた昴は制服姿のまま。高校受験が近いからだろうか、普段より少し疲れた表情をしている。


「お兄様。今日は少しだけ遅くなりました、すみません。せっかくのお兄様との二人きりの団欒の時間を……」

「おーい娘よ、パパもいるぞー」


 父が悲しそうに突っ込む。俺は昴に言う。


「気を使うなよ、昴。今日も頑張ったんだろ?」


 昴は小さく頷いた。制服のスカートを軽く払いながら席に座る。


「昴ちゃん、まずはご飯食べてきなさい」


 母が優しく促す。昴は丁寧に両手を合わせた。


「ありがとうございます。いただきます」


 食事が進む中、父が唐突に話し始めた。


「なあ斗真。あと半年で卒業だよな」

「……うん?」


 予想外の話題に顔を上げる。


「実は考えてることがあってな」


 父は箸を持ったまま、真剣な目で俺を見つめる。


「陰陽師育成の学校の事だ。知ってるだろ? 陰陽寮付属如月学院高校」

「……国が運営してる学校のことですか?  四大公爵――藤原が関わってるって噂の」


 その名前を聞いた途端、俺の胃がキュッと締まった。


「……まさか、俺に通えとでも言うのか?」


 冗談ではない。俺が何よりも求めているのは、この穏やかな暮らしだ。ましてや、力を失ったこの身で、かつての因縁が渦巻くであろう場所へ足を踏み入れるなど、正気の沙汰ではない。


「冗談で言っているわけじゃない」


 父の声は、いつになく重く、真剣な響きを帯びていた。


「斗真、お前の霊力は確かに衰えた。だが、その知識は誰にも劣らない。それを活かすべきではないのか?」

「活かすも何も……」


 俺の言葉を遮るように、昴が箸を止め、真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。


「お兄様。私も進学について考えていました。もし学院に行かれるのであれば……私もご一緒いたします」

「昴まで!」


 思わず、張り詰めていた声が荒くなる。


「そもそもお前はまだ中二だろう……」


 しかし昴は、その澄んだ瞳を揺らすことなく静かに続けた。


「あら。私がどれほど努力を重ね、好成績を収めてきたとお思いですか、お兄様。飛び級の資格はすでに手にしています。その気になれば、大学にだって進めるのですよ、私は」


 ……そうだったのか。確かに昴は努力を惜しまない。前世の知識と記憶に囚われ、どこか惰性で生きていた俺とは違い、ゼロから己の力で知識を吸収し、道を切り開いてきたこの妹は、確かに優秀だ。だが、まさかそこまでとは。


「お兄様が一人で、その重荷を抱え込む姿は……もう見たくありません」


 母が、そっと俺に寄り添うように柔らかな声で言った。


「斗真。決めるのはあなたよ。でもね……」


 母の手が、俺の指先にそっと触れる。その温かさが、心の奥底に染み渡るようだった。


「私たちが、いつでもあなたの味方だということを、どうか忘れないでね」

「斗真、聞いてくれ」


 父は箸を置き、真剣な目で俺を見据えた。


「お前を危険に晒すつもりはない。だが、現実問題として……」


 言葉を選びながら父は続ける。


「金が無い」

「……は?」


 その一言は、それまでの重苦しい空気を一変させ、あまりにも唐突に、そして滑稽な方向へと話の舵を切った。


「一等、いや昇進して特等になったんだったな。とにかく特等調伏官はエリートだろう。それが、まさか金がないなんて……」


 俺の言葉に、それまで真剣な面持ちだった尊敬し、敬愛する我が父は、途端に額に脂汗を浮かべ、視線をあらぬ方向へと泳がせ始めた。

 ……おい、一体何を仕出かした。


「父さん。正直に話してください。何を、やらかしたんですか」

「いやっ! 大したことじゃないんだ! ちょっとその……国の重要な施設っつーか遺跡をだな、盛大にぶっ壊してさ……それでとんでもない借金を背負わされたっつーか……いや、俺は悪くねーぞ!? 悪いのは張り切り過ぎた九重だ! 俺は悪くない!」

「九重」


 俺は九重を呼ぶ。


「はっ、ここに」


 式神の狐少女が現れる。


「何があった」

「えーと……あいつらが悪いのです、芦屋道満様の名を騙り、なにやらしでかそうと企んでおりまして! ならばついつい気合いが入りすぎても致し方なし、でありましょう!」

「そうだそうだ!」


 九重と父が声をそろえて言う。

 ……この二人はまったく。じつに息がぴったりのコンビになったものだ。


「で。それで家計が火の車なのと何が関係が」

「あー、いやそれでだな。陰陽師として実績や能力があれば、如月学園は学費免除されるんだよ」

「学費が無いなら俺は働きますよ。それでいいだろ」

「いーや、父として息子には自由に進学させてやりてぇ。しかし金がねぇ。だから学費免除の学校に行けばいい、という天才的な発想だ」

「流石ですな秋房殿! 斗真様の優秀さであれば学費免除どころか、あちらが大金を積んで来てくれと泣きつく事でしょう!」

「そうですね、お兄様は天才ですから! もちろん私もついていきます」


 三人が盛り上がる中、俺は一人ため息をつく。

「……致し方あるまい」

 深く、深く、息を吐き出す。納得はできない。この身に再び絡みつく因縁の糸を、なぜ自ら手繰り寄せねばならないのか。しかし、彼らの想いと、そして目の前の現実を前にしては、抗う術もない。理解は、した。


「お兄様?」


 昴が、俺の表情を案じるように不安げに尋ねる。


「そういうことなら仕方ない、というかもうこの流れだと俺が何を言っても無駄だろう。……じゃあ、如月学園行きを、前向きに検討しますよ」


 俺がそう告げると、三人は安堵と喜びがないまぜになった表情で顔を見合わせ、堰を切ったように笑い声を上げた。その笑顔が、俺の胸の奥に灯る小さな決意を、確かなものに変えていくようだった。




 その夜。

 父さんと母さんは寝室に向かい、昴も勉強があると言って部屋に戻った。

 静かなリビングで一人、俺は窓の外を眺める。


(藤原家が絡む学園へ足を踏み入れるということは……)


 意識の奥底で、冷たい予感が蠢く。考えたくはない。だが、一度足を踏み入れれば、必ず何かが起こるだろう。千年の時を超えて、前世の因縁が再び俺を――いや、今度はこの大切な家族をも巻き込み、襲いかかるのかもしれない。


(それでも……)


 窓の外に広がる、見慣れた夜の街並みをぼんやりと見つめる。この穏やかな日常を、この温かい家族を、何者にも脅かさせはしない。彼らがいる限り、俺は戦う。それが、芦屋道満としてではなく、芦原斗真として、俺が選んだ道なのだから。

 しばらくすると――


「斗真様」


 声がした。振り返ると、九重が立っていた。


「……やはり、不安でしょうか。しかし心配なさらずとも、この九重が斗真様をお守りいたします!」


 九重はその小さな胸を叩いて言う。


「……頼もしいな」

「は、はひ! この九重、生涯を斗真様に捧げましたゆえ!」


 その忠義は正直嬉しい。


「……ああ」


 俺は小さく頷き、そのままベッドに倒れ込んだ。


(明日からまた新しい日々が始まる、か)


 進学に進路変更だ。受験勉強に励まなくてはならない。

 陰陽術、呪術の知識はいかようにもなろうが、新しい呪術知識は学ばねばならぬし、普通の学問もやらねばならぬ。

 ……大変だな。


 そう思った瞬間、自然と笑みがこぼれた。


 この芦原斗真の人生、思ったより平穏無事にとはいかなそうてせある。




 ◇

「お兄様! 早く行きましょう!」


 昴が玄関で叫ぶ。


「わかってる。父さんは?」

「先に行きましたよ。『現場確認』だって」


 朝食を終えた俺たち兄弟は、試験会場の如月学園へ向かっていた。父は「調伏官として周辺偵察をする」と言い残して早々に家を出た。


「さて、行きますか」


 昴と共に玄関を出る。春の日差しが心地よい。


「お兄様、この試験は学費免除がかかっているんですからね! 頑張りましょう!」

「ああ」


 通学路から少し外れた住宅街を歩いていると──


「きゃああっ!」


 悲鳴が聞こえた。路地裏の暗がりからだ。


「お兄様!」


 昴が駆け出す。俺も続く。


 路地の奥で小さな女の子が怪物に襲われていた。


 巨大な全身が毛むくじゃらで蜘蛛のような脚が八本。口からは涎が垂れ、餓えた眼がギラギラと光っている──餓鬼蜘蛛だ。

 十四――いや十五年前に、父が戦った最下級の五級邪霊とおなじものである。その禍々しい姿は、かつて俺が相対した邪悪な存在の、あまりにも矮小な模倣に過ぎなかったが、今の俺にとっては――。


「ああ……あ……っ」


 女の子は腰を抜かし動けない。

 昴も――無理だな。彼女は昔から虫が大嫌いだ。虫の邪霊は彼女にとって天敵だ。この場で動けるとは思えない。 

 餓鬼蜘蛛が大きく口を開け、鋭い牙で襲いかかる!


「九重!」

「はっ!」


 俺が叫ぶと同時に九重が現れ、女の子の前に立つ。

 そして女の子の身体を抱え、離脱した。


「昴! 女の子を!」

「はい!」


 昴が九重に駆け寄り、怯える女の子を抱き起こす。虫が苦手な昴だが、それでも俺の指示に的確に動けるのは流石といっていい。強く育った。


「お兄様!」


 そして昴が叫ぶ。餓鬼蜘蛛がそのまま俺の所に突進してきたからだ。

 餓鬼蜘蛛はその爪を振り上げ――――



「――急々如律令ナルハヤ



 俺がそれより早く剣印を斬り、唱える。


 その瞬間、餓鬼蜘蛛が吹き飛んだ。


「……ふむ」


 俺は言う。


「五級邪霊、餓鬼蜘蛛をなんとか調伏できる程度、か。回復には程遠いな」


 一撃で吹き飛ばしたにもかかわらず、俺の胸には焦燥感が募る。これではやはり、全盛期の、あるいは五年前のあの力には遠く及ばない。かつては呼吸するように扱えた術も、今は霊力の枯渇と力の衰えが、まるで重い枷のようにのしかかる。この先の戦いを見据えれば、新たな手段を模索する必要があるだろう。


「……」


 そんな俺の内心の焦りとは裏腹に、昴は呆然とした表情で俺を見つめていた。その瞳には、心配と、そして純粋な驚きが宿っている。

 やがて、彼女は震える声で口を開いた。


「さ、流石ですお兄様! ああ、やっぱりお兄様は最高です!」

「……御世辞はいい。それより、あの子は大丈夫か」


 九重が言う。


「ええ、斗真様。軽い擦り傷程度ですね、大事はございませぬ」

「そうか」


 見知らぬ縁もゆかりもない子とはいえ、大怪我されては寝覚めが悪い。

 そんな時、サイレンの音が聞こえてきた。


「警察か、調伏官か。関わってると試験に遅れそうだな、急ぐぞ」


 俺は昴の腰に手をやり、


「臨兵闘者以下省略」


 呪文を唱え、遁甲の術を発動する。遁とは、世間では様々な誤解や迷信に彩られているが、その本質はあくまで逃走、あるいは隠蔽のための術だ。

 かつての俺ならば、一瞬で場所を転移させることも容易だっただろう。だが、今の霊力ではそれは叶わない。この術でさえ、かつてのようには自在に扱えぬ己の力の限界が、じわりと胸に広がる。


「わ、わあっお兄様っ!?」


 昴が大声を上げるが気にしない。俺たちはその場から高速にて遁走した。




「……これはひどいな」


 現場に到着した調伏官の一隊は愕然とした。

 地面には餓鬼蜘蛛の体液が飛び散り、八本の脚の一部が散らばっている。建物の壁には巨大な爪痕が深く刻まれていた。

 そして残骸はゆっくりと消滅し始めている。


「被害者は?」

「女の子が一人です。今は救助隊が保護しています」


 隊長格の女性調伏官がしゃがみ込み、床の痕跡を調つつ言う。


「目撃証言は本当なのか? 信じられんな。

 たった一人の少年が、餓鬼蜘蛛を、まるで紙屑のように一撃で粉砕した……というのは」

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