第8話 泰山府君祭

「――――え?」


 それは、あまりにも間抜けな、現実を拒絶する声だった。

 私の口から洩れ落ちたその音は、耳朶に届く前に虚空に溶けていく。


 眼前で、秋房の体が緩やかに、しかし確実に崩れ落ちていくのが見える。鮮やかな赤が、苔むした鈍色の石にじわりと広がり、冷たい湿り気の中に熱い命が吸い込まれていくようだった。遠くで九重の悲鳴が聞こえ、それに呼応するように蛇が放つ狐火の、不吉な音が響く。


「な……ぜ」


 掠れた、意味を成さない音が、私の喉から絞り出される。それ以上の言葉は、思考の海に沈んでいくばかりだった。


 何が起きた。

 一体何を、どこで、間違えたのだ。この私の、完璧な計算のどこに綻びがあったというのか。


「よかっ……た、無事、か」


 その声は、途切れ途切れで、しかし確かな安堵を含んでいた。それが、私を深く苛立たせる。

「ぶ……無事も、何も。私はあの程度の式に、倒される事など」


 あり得ないのだ。この芦屋道満が、たかだかその程度の妖魔に後れを取るなど。

 ああ、秋房なら……そのくらいわかっていただろうに。私の強さを、傲慢さを。

 だが、秋房は血を吐きながら、それでも笑う。その頬には、まるで子供のように純粋な、諦念と満足が浮かんでいた。


「ああ、そりゃ……そうだよな。ああ、そりゃそうだ。だけどなんでかなあ……頭ではわかってたのに……気が付いたら、身体が……動いてた、わ」


 秋房は力なく、しかし深く笑う。その乾いた笑い声が、私の心臓を鈍く打つ。ああ、わかる。これは、完全な致命傷だ。助からない。

 私の頬に、秋房の鮮血が熱く、そして粘りつくように滴る。その温かさが、私の冷え切った思考を乱す。


 なぜこうなった。全ては計算通りに進むはずだった。

 九重が蛇眼の妖魔を調伏し、その直後に私を倒した黒骸を抑える。完璧な筋書きだったはずなのに。

 だが、黒骸の暴走は想定を超え、あの禍々しい蛇眼の妖魔は、私の知らぬ存在だった。芦屋道満として蓄積した千年の知識をもってしても、この現代で、私は見誤ったというのか。


「我秦広王に願い奉る、五行烈焰、赫々たる光邪を焼き払え! 炎気応ぜよ、急々如律令!」


 残った陰陽師たちが必死に炎を放つが、その術は黒骸の圧倒的な霊力に容易く弾かれる。蛇眼の妖魔の無数の眼が、その様を嘲笑うかのように瞬き、私を射抜く。


「姫様、退避を急ぎます!」


 柚姫の侍女の焦燥に満ちた叫びが、耳障りに響く。柚姫は優雅に扇を閉じ、その白い指先で唇を隠しながら、冷ややかに呟いた。


「芦原調伏官、無念ですわね。斗真様……その真価、しかと見届けましたわ。残念です」


 その言葉は、まるで氷の刃のように私の胸を貫いた。「あれは道満などではない、ただの子供だ」と。柚姫の冷ややかな、一切の感情を排した瞳が、そう告げていた。


 ああ、成功だ。見ろ、私は藤原の姫の式神を欺いてやったぞ。この千年の計略は、見事に成就したのだ。

 なのに、喜びなど欠片も湧いてこない。胸の奥に広がるのは、ひどく空虚な、そして熱い痛みだった。何だこれは、何がおきているのだ。私の感情は、なぜこんなにも、計算通りにならない。


 柚姫は冷徹に車列へ退き、木々の間にその姿を消していく。私はそれを視界にすら入れずに、ただ呆然と、目の前の惨劇を見つめていた。


「なぜ……なぜ……」


 私の口から出るのは、意味を失った音の羅列だけだった。思考は泥沼に沈み、何も捉えられない。ぐちゃぐちゃだ。完璧に組み立てたはずの私の世界が、音を立てて崩れていく。


「なんでだろう……な。やっぱ、親父って……そういうもんだから、じゃねぇかな」


 秋房の声が、絶望の淵に沈む私を引き戻す。


「だって、私は……父上の……秋房の、あなたの子では……!」


 そう。

 ただの契約だ。あの男と私を繋ぐのは、冷徹な利害の一致だけ。偽の親子関係だ。仮初の家族だ。転生した私が、この時代で平穏に生きるために、ただ都合がよかっただけの存在。

 ただの、道具だったはずだ、お互いに! そう、割り切っていたはずなのに。


「……知るかよ、そんなこと」


 だが、秋房は、私の否定を打ち砕くように言った。その声は、血に塗れてもなお、揺るぎない確信を帯びていた。


「血が繋がって……なかろうが。義理だかゴリだか知らねえけど、十年一緒に過ごしてきたんだ……ぜ。だったらもう、親子だろうが……」


 血を吐きながら、秋房は、最期の力を振り絞るように笑う。その笑顔は、私に向けられた、純粋な愛情だった。


「楽しかったんだよ、楽しかったぜ……お前に助けられて、茜と結婚して、昴が生まれて、お前と過ごし……て、お前に教えて、お前にシゴかれて……

 ああ、楽しかったんだ。

 だから……」


 ごぼり、と。秋房は、生と死の境で、血の塊を吐き出した。その吐息が、冷たい風に混じる。


「後は……頼むわ、母さんと、昴を……な……

 芦原斗真……俺の、愛する……むす……こ…………」


 そう言って。


 芦原秋房は……その瞳から光を失い、静かに動かなくなった。その体は、まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、完全に力を失っていた。



「ち……ち、うえ……」


 私の口から、絞り出すような声が漏れる。それは、千年の時を超えて、今この瞬間に、私の魂の奥底から湧き上がった、真の悲嘆だった。

 ああ……私は馬鹿だ。生まれ変わっても何も成長していない。あの傲慢な、人の心を知らぬ芦屋道満と、何一つ変わっていない。一番の阿呆は、私だった。

 人の心が解らぬから、人の心を掴めぬから、愛した弟子たちの裏切りを許した。

 生まれ変わり、二度と弟子を信じぬと決めた。もはや己しか信用できぬと、孤独を選んだ。今度こそ上手くやり、誰にも邪魔されない平穏な人生を生きようと、そう誓ったはずなのに。


 その結果がこれだ。私は――再び、大切なものを失った。この手で、父を失った。

 偽りの契約で始まった関係だったとしても、私を愛してくれた、この世で唯一の「父親」を。


(――やめろ)


 私の心の奥底が、警鐘を鳴らす。それは、千年の智が叫ぶ、絶対の禁忌。

 それを行ってはならぬ。ああ、確かに私にはそれが出来る。その力がある。比類なき才もあろう。

 だけど、なぜ前世の、生前の私がそれを行わなかったか。その答えは、この身に深く刻まれているはずだ。


「――我、冥道の諸神に願い奉る」


 代償があるからだ。あまりにも大きすぎる、魂を削るほどの代償が。それほどまでの大呪術である。

 特に、己の寿命を延ばすといった、些末なものならともかく、これは違う。

 それだけは。この世の理を捻じ曲げるような、禁断の秘術。


「一に秦広王、二に初江王、三に宋帝王、四に五官王、五に閻魔王」


 それだけはやってはならぬのだ。理解しているはずだ。その代償が、どれほど重いものか。

 理解しているのか、芦屋道満。この術が、お前にもたらす結果を。

 それは。


 お前が積み上げてきた全ての霊力を失いかねぬのだ――! それだけではない!


「六に変成王、七に泰山王、八に平等王、九に都市王、十に五道転輪王」


 このような術を使えることが藤原にばれてしまえば、それは……この時代でようやく手に入れた、全ての平穏を失ってしまう! お前が望んだ安寧は、二度と手に入らなくなるのだぞ!


「斗真様!」


 九重の、切羽詰まった叫びが響く。黒骸がその巨大な拳を、鋭い爪を、私めがけて振り上げる。

 ああ、五月蠅い。黙れ。邪魔だ。私を、この決断から引き離そうとする全てのものが、今はただ、邪魔でしかなかった。


 ――その時、私の脳裏に、あの日の記憶が不意に去来する。それは、あまりにも場違いで、しかし、私の心を揺さぶる、暖かな記憶だった。


『そういや、お前、詠唱なしでも急々如律令は言うんだな』

『然り。あれは結び言葉。術を完成させる号令ゆえ、陰唱では済みません。』

『でも長いだろ? きゅうきゅうにょりつりょう、ってさ。意味がわかって自分に言い聞かせるのが大事なら、なるはやー、でいいんじゃね?』

『そのような言葉は使いませぬ。天地がひっくり返ってもありえません』


 私は、俺は黒骸にただ腕を突きつける。その手には、全身の霊力を、魂の全てを込めるかのように、力が集中していく。



「――急々如律令ナルハヤ



 瞬間。

 その言葉が、私の口から放たれた刹那、黒骸の頭が、まるで粘土細工のように粉々に吹き飛んだ。


 ――どうでもよい。

 もはや何がどうなろうと構わない。霊力を失おうが、平穏が崩れ去ろうが、全てを失おうと、構わない。

 俺が求めるのは、ただひとつ。この身を削り、魂を燃やし尽くしてでも、手に入れたいもの。


「閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土巡り廻りて山登り、泰山府君に申し上げ奉る」


 父を。この手で、再び、現世に蘇らせる。

 あの暖かい家族。千年前には決して得られなかった、陽だまりのような日常。偽りでも、仮初でも、そんなものはどうでもいい。


 それ以外に、もはや何もいらない――!!


「斗真様ぁーっ!」


 蛇を調伏し終えた九重の、悲痛な叫びが遠く聞こえる。

 私の身体から、霊気が急速に、津波のように流れ出し、全身を激しい震えが襲う。森がざわめき、まるで慟哭するかのように鳴く。大地が、この世の理が捻じ曲げられることに耐えかねて、おののく。秋房の体が、眩い光に包み込まれ、倒れた陰陽師たちが、畏怖と驚愕に息を飲む。





 ここに――泰山府君祭は、成った。




 ◇

 数日後。

 藤原家の、私への疑惑は晴れたようだ。私は憑依体質の子供と見なされ、父上は英雄として讃えられる。黒骸と蛇眼の妖魔は九重と陰陽師により調伏された。

 何とも都合のよい事に、ちょうど柚姫が撤退し、藤原の陰陽師たちも半数が倒れていた。よって、九重の術で彼らの記憶を操作し、事なきを得る事が出来た。


 だが、藤原柚姫は果たしてこれで何もなしに我々から手を引くのだろうか。そうは思えぬ。


 芦屋道満の疑念が完全に晴れたとの保証はない。父上は相変わらず、一等調伏官であるし、ただ手放すとも思えなかった。

 そして――やはり私は、霊力を喪った。

 その事に悔いはない。己の失態のつけを自分で支払っただけだ。


 自室で昴が寄り添う。


「おにいさま、かなりの無理をなさいましたよね。私は怒っています。昴、もっとお力になりたかったです」


 寄り添うというか、むくれているといすうか。


「昴、すまなかった。ああ、俺は反省してるよ」


 本当に反省するばかりだ。もっと視野を広く、そして己を見つめ直さないといけない。


「……おにいさま、変わりました?」

「何がだ?」

「わたし、からおれ、になってますよ」


 ……言われてみればそうだ。特に意識はしていなかったが。

 だがまあ別に良い。問題は特に感じないしな。


「おーい、入るぞ」


 父上が部屋に入ってくる。


「父上、あまり無茶しないでください。父上も死にかけていたんですよ」


 実際には絶命していたが。


「お前が言うなよ。怪我はもう治ってるし、後遺症はお前の方がひどいんだぞ。無茶しやがって……」


 父上は大げさにため息をつく。だけど父上に言われたくは無いよ。


「お互い様です」

「というか、どっちも言語道断です! 今回の事、九重は深く激怒しておりますゆえ」


 九重がぷりぶりと頬を膨らませている。

 そして俺と父上は――親子は互いの顔を見て笑いあった。


 失ったものは確かに大きい。だが、守れたものはもっと大きい。

 父の存在。母と妹の笑顔。そして式神。

 俺の居場所が――ここにはある。



 これから霊力を喪った俺は、新たな試練に直面するだろう。

 千年前の知識だけでどう対処していくのか。霊力は戻るのか。その方法は。

 そして藤原はどう動くのか。

 芦屋道満を殺そうとしていた、俺の生みの親の家も気にかかる。

 見通しはつかない。だが、不安は無い。


「おにいさま、昴も戦えます。おにいさまの力になります、もっと本格的な術を教えてください。お父様よりも役立って見せます」

「おいおいおい、昴お前まで俺をそんなふうに! 反抗期かよ!?」

「違いますおとうさま。昴はただ……」

「昴、お父さんたちを困らせちゃだめよ」


 母上が入って来る。いつもの柔和な笑顔だ。癒される。


「昴、焦るな。まずは基礎を固めなさい」

「承知いたしました。ですが、おにいさまの側で学びたいのです」


 俺は苦笑しながら頷く。霊力は失ったが、知識と家族が残っている。父上の笑顔、昴の決意、母上の優しさ。九重の忠義。


 ――ならば、この芦屋道満、いや……芦原斗真。

 恐れるものなど、あるものか。


 俺は戦う。千年の後に手に入れた、この平穏を守るために。





 第一章 完

 第二章へと続く

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