終わる世界の『承』②――青
あれこれ考えている間に辺りも薄暗くなってきた。それでも釣り糸はピクリともしない。同じくピクリともしない猫娘は、とっくにその場で寝こけている。本当にどこでもすぐに寝るヤツだ。
魚影が近づいてすらこないから、オレの腕や付け焼刃の道具が悪いというのでもないだろう。餌が不足しているといっても水温も下がってきたし、天変地異の衝撃にまだ警戒が解けていないのかもしれない。
埒が明かない。釣り竿を河原へ放り出すと、すぐに
慣れない肉体労働に悪戦苦闘していると躓いてしまった。ジーンズの右膝の部分が河原の石に擦れて少し破れてしまっている。濃い色のジーンズだから判らないが、ジンジンと熱を持ち始めた膝は出血してしまっているだろう。
擦り傷程度だろうが、化膿でもしたら大事だ。一応消毒しておこうと鞄から救急キッドを取り出して準備する。しかしジーンズを捲り上げてみたら、傷らしい傷はなかった。用心の心構えが実際以上に痛みを感じさせていたようだ。
時間はとってしまったが、行動としてはこれでいい。サバイバルでは慎重さこそが重要だ。結果的に大したことがなかったならそれに越したこともない。
気を取り直し、地引網漁を再開する。ミィの騒がしさを逆手にとってわざと大騒ぎさせ、その逆側で水中をさらうと、なんとか数匹捕まえることができた。
「今度こそがご飯? 今日のおかずはその細長いの?」
アルミカップで川の水を掬い、火にかけるとミィが口を挟んできた。
「食うワケねえだろ」やっぱズレてんな、コイツ。「実験すんだよ」
温めていた水が途中で紫色に発光した。最初は弱く、火にかけるほどに強い光を発する。沸騰前のそれを釣った獲物にかけると、急激に膨張し全体的に溶けてしまった。とはいえ、一度目撃した人間同士の接触時に比べると穏やかな変化だ。
次に出しっぱなしだった救急キッドの中から体温計を取り出して、再度川から汲んできた水を温めつつ計ってみる。体温計が壊れてしまうのを覚悟しての実験だったが、三十二度を上回ったところでほのかに発光し始めた。
三十二度は温水プールより少し温かい程度だ。試しにそのぬるま湯をかけてみると、それでも発光していないミネラルウォーターの熱湯よりはるかに溶ける速度が速い。ペットボトルの水を同水温にしてかけてみると、かけたところの表面だけがゆっくりじんわり溶けていく。
「なるほど。やっぱこの紫色に光る何かが原因なんだな」
ただのぬるま湯でも溶けてしまうのは、体内に紫色の何かが混入しているせいなのだろう。こいつは三十二度以上の温度で活性化し、同じ紫色同士の接触で激化する。そういう性質を持っているようだ。
ということは、変温動物同士は接触しても溶けないのかもしれない。今の川の水は二十度くらいだから、人類同様に紫のあれに汚染されていても、活性化していないはずだ。オレが触ったらどうなるんだろう。オレだけなんともないのか、両方溶けるのか。
一人首を傾げていたら、やけにミィが静かなことに気が付いた。いつも「それ何? どゆーこと?」と幼児のように質問攻めにしてくるくせに、こんな不可思議な現象を目の当たりにして何も言ってこない。まあコイツも一応接触には気を付けているし、それで溶けてしまうことぐらい、オレと会うまでにどこかで見知っているんだろう。そんなことより今はメシのほうが待ち遠しいのかもしれない。
「とりあえずメシにするか。危険な温度が判ったから、今日は……」
ミィの横顔を見て、言葉が途切れた。オレの手元から顔を背け、眉を顰めている。
「どうした? 腹でも痛いか?」
「ううん。なんかちょっとカワイソかなって。ジッケンすることの大事なのは判ってただけど……」
髪を弄っていた指がお守りに縋るように胸元の鈴をぎゅっと握りしめた。思い出したのかもしれない、自分が受けていた仕打ちを。
「お前本当に……」
「あ、別にそーたは悪いとかないからね! ジッケンもジブンのためでしょ? 今日もおいしいの食べれる? ジブン、お腹空いた!」
「……お前はどんだけ自意識過剰なんだ」
実験はコイツなんかのためじゃなく、オレ自身の安全と情報収集のため。まあそのおこぼれとして、コイツにも温いメシくらい食わせてやってもいい。粥も魚の水煮も温めたほうが香りが立って美味いに違いないんだから。
すっかり暗くなってから一番近い民家の窓を割って侵入し、久しぶりに加熱調理をした。のびた温いラーメンと温い猫まんまの夕メシだ。
翌日は家々や店舗を探し回って入浴に必要なものを揃えた。水の張ってある浴槽。水温と気温の両方を計れる温度計。シャンプーや石鹼。タオル類。髪を乾かすための吸水タオルとハンディ扇風機。湯を沸かすためのカセットコンロにガスボンベ。その中でも水の張ってある浴槽を見つけるのは骨が折れそうだと覚悟していたが、災害の多い日本だからだろう。比較的被害の少ない家は浴槽に水を溜め置いてあることが多いらしく、案外すんなり見つかった。
何はともあれ風呂だ。ミィはもちろん、オレも隕石落下以降一度も風呂に入れていない。ドライシャンプーを使ったり濡らしたタオルで身体を拭いたりはしているが、やはり水、できれば温水を使わないと洗った気がしなくて気持ち悪い。
ちまちまとカセットコンロで湯を沸かしては浴槽に注ぎ入れ、温度計で水温が三十度ほどになるように調整する。やっと用意を終え、先に入れと促したら、ミィは頑として首を縦に振ろうとしない。仕方がないからまずはオレが入った。一番風呂は気兼ねするから、オレはあとからゆっくり湯船に浸かろうと思っていたのに、折角の計画が水の泡だ。
やっぱり三十度のぬるま湯を浴びるだけじゃ肌寒さしか感じない。オレが小学生の頃に通っていたスイミングスクールでも潜ってしまえばそれなりに温かいが、頭を出していると身震いが起きるほど冷たく感じたものだ。
それでもとりあえずはさっぱりし、意気揚々と部屋に戻る。
「ミ……おい。次はお前の番だぞ。冷めた分温め直してやったから、さっさと入ってこい」
暫定ネームを口走ってしまいそうになったが、ミィはそれどころじゃないのかまったく気付かず、いかにも渋々といった重い足取りで部屋を出ていった。川だけじゃなく、水全般が苦手らしい。前にワンピースを洗うつもりが水遊びを始めてしまったことがあるから、身体が水に浸かるのが怖いのかもしれない。もしや水責めの実験でも受けていたのだろうか。
オレの三倍近い時間が過ぎたのち、やっと戻ってきたミィは髪が濡れているだけでほとんど入浴前と変わらなかった。
「ちゃんと洗ったのか? 全然汚れ取れてないぞ」
思わず小言を言うオレにシュンとして、「でも頑張るったもん……」と水の滴る毛先を指で弄る。
身体を拭いたこともなかったくらいだ。まともに風呂に入ったことなんかないのだろう。とはいえ、オレが手伝うワケにもいかない。別にこんな子供体型の猫娘、裸を見たところでなんとも思わないが。
ミィはしょんぼりしながらも濡れた髪を必死に手櫛で梳いている。まあちょっとは女心ってヤツが芽生えてきたのかもなと思い直して、家探しで見つけたヘアブラシや化粧水を渡してやった。片方だけの赤い目が「何これ?」と言わんばかりにキョトンとする。使い方を教えてやったものの、使い方が悪いのかやはりほとんど差異は感じられない。相変わらず髪は結んでいても飛び跳ねたり絡まったりで、折角風呂に入ったのに埃だらけの畳に寝転がってしまった。
こんなに世間知らずで、オレに出会うまでどうやって生きてきたのか本当に不思議だ。施設を抜け出せたのは異変後だろうけど、頼みの綱の『命の恩人』とも再会できずに、一人きりでどうやって。
今オレがいなくなったら、コイツはきっとすぐにおっちんでしまうことだろう。仕方ない。あれこれ教えてやるか。別にコイツのためとかじゃなくて、コイツが一人でなんでもできるようになればオレの負担も減るし、置いていくことだってできるからな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます