終わる世界の『承』①――青


 猫娘のことは心の中で『ミィ』と呼ぶことにした。

 口に出さずとも三十一番なんて名前らしくない名前では思考のノイズになるし、仮に万が一あの娘が本当に番号で呼ばれていたのなら、たとえ心の中で呼ぶだけでも陰湿ないじめのようで気分がよくない。

『ミィ』も三と一の語呂合わせだが、三十一番とは語感がかなり異なる。猫みたいな名前だからこれはこれでいじめな気がするものの、他に適当な名前も思いつかなかった。心の中で呼ぶだけだし、とりあえずの暫定的なネーミングだ。どうせ、決定することなく別れることになるだろう。



 そのミィを引き連れて、昨日の宣言通り、方位磁石を頼りに南に向かって進み始めた。これまでは目的もなく食料や物資を探してウロウロしていたけれど、これから気温が下がることを考えると南下するほうがいいだろうという考えの元だ。

 車を手に入れようかと道中で見かけた車体に何度か近づいてみたが、キーが刺さったままの車にはもれなく死体か元人間だったゲル状の物質が残っていた。さすがにそれらを押しのけてというのも気乗りしない。別に罪悪感があるからではない。単純に気持ち悪いし、スライムなんか元の体積の三倍くらいになっていて掃除も大変だ。誤って接触して自分が溶けてしまう可能性まである。

 まあ南なら気温が高いという確証はなく、急ぐ旅でもない。車に乗ったところで道路はそこらじゅうが瓦礫と化し、衝突事故で塞がってしまっている。二輪車なら小回りはきくが、二人乗りできないためバイクは除外される。自転車二台で進もうにも、ミィは絶対乗れないだろうし。

 それでも徒歩のままで郊外までやってこれた。建物はほとんどなく、緑豊かな平野に穏やかな川が流れている。瓦礫がないから、これならあの鈍くさいミィでも躓いてこけることはないだろう。と思ったら、早速姿が見えなくなっていた。さっきまでオレに鞄を預けておいて、無意味にはしゃいでまとわりついていたくせに。

 背後を振り返ると、ミィはこけてはいなかった。河原でしゃがみこみ、なにやら熱心に地面を見つめている。豊かな自然とは言いがたいが、一応は緑に囲まれた川のほとりに座りこむ、赤いレインコートと長靴を身に纏った少女。こうして見ると、道草を食っている赤ずきんのようだ。

 引き返すと、ミィの関心を引いていたのは可憐な野の花――などではなく、瀕死のカエルだった。赤ずきんなんていいもんじゃねえな、これは。田舎もんの小学生だ、小学生。

 カエルのほうは春を満喫しようと冬眠から覚めたところで、天変地異による気温低下を受け弱ってしまったらしい。いわばオレの念願成就の犠牲者というワケだ。人間と猫は嫌いだが、他の動物は好きでも嫌いでもない。丁度いい。このまま苦しむくらいなら、ひと思いに楽にしてやろう。

 持っていたペットボトルの水をアルミのカップに移した。キャンプ用のアルコールストーブを安定の悪い草地を避けて設置し、カップを慎重に火にかける。

「ご飯?」

「さっき食っただろ。危ないから離れてろ」

 カエルを救済するシーンはこの小学生にはショッキングかもしれない。猫を追い払うように手を振ったら、ミィは満面の笑みで「うん! 任せるた!」と返事して川辺まで駆けていった。メシじゃないならおやつだとでも思っているのだろう。水面を覗きこんでいるものの、大量の水が怖いらしく腰が引けている。あれなら嵌って溺れることもないか。

 湯の沸騰する音に視線を下向ける。未開封のミネラルウォーターだからか、紫色に発光はしていない。熱が伝わらないように落ちていた枝でマグカップの持ち手を引っかけカエルに湯をかけた。予想通り、カエルはゲル状になって溶けていく。

 やはり生物同士の接触より膨張も溶ける速度も緩やかなようだ。熱湯をかけていない部分も溶けたりしていない。オレが見た限りだと人同士の接触の場合、全身が順次突沸したように膨れ上がって溶け落ちていた。

 知りたいのは融点の温度だ。さっきは熱湯だったが、いろんな温度で試してみるとしよう。飲み水は貴重だから湯は川の水を沸かすとして、カエルの代わりは――。

「釣りでもするか」

 呟いて、リュックからビニール紐の束を取り出した。細く裂いて適当な木の枝にくくりつけ、安全ピンで作った釣り針もどきを取りつける。餌はミィお気に入りのコンビニチーズちくわだ。

 簡易的な釣り竿でも餌に不自由しているこの状況では入れ食いだろう。そう踏んでいたのだが、待てど暮らせど一向にかかる気配がない。それというのも、さっきから周りでウロチョロしているミィのせいだ。

「ねえねえ、何してるだよ? その紐何? この袋の残るってるの食べてもいい?」

 猫娘が動くたび、首を傾げるたび、ちくわを貪り食うたびに胸元に垂れ下がったリボンの先の鈴が鳴る。鈴は大きなビー玉くらいのサイズで、しかも二個。体重が軽いからか足音はほとんどしないのだが、それを補うかのような騒がしさだ。普段はぶつかり防止になるのだが。

「おい、ちょっとそのチョーカー外せ」

「え、やだ」

「別に捨てろってんじゃない。捕まえる間ポケットにでも入れとけ」

「やだ! これは大事なものだよ!」

 手を突き出したオレに憎たらしく顔を背け、そこらじゅうを逃げ回る。更に振り撒かれる鈴の音に辟易して、「じゃあせめてじっとしてろ。ピクリとも動くなよ」と妥協した。

 ミィは一応は言いつけを守り、オレの隣で固まっている。釣り竿代わりの棒切れを構えたまま、真っ白な首を彩る赤の組紐を横目に眺めた。

 確かにコイツの元々の持ち物の中で、このチョーカーだけが異質だ。薄汚れているのは同じだけれど、よく見てみたら鈴が少し凹んでいる。まだら染めだと思っていた二色の赤色も、本来はすべてが明るいほうの赤色で、暗いほうの赤は古い血の跡なんじゃないか。

 コイツがいたのが本当に研究施設なら、靴も履かせない極悪人どもが装飾品を用意してくれるはずもない。オレと人違いしている『命の恩人』に関係する代物なのかもしれない。


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