終わる世界の『承』③――青


 数日が過ぎた。日付なんかとっくに判らなくなっているが、寝て起きてを数回繰り返したから数日だ。

 時間も判らないような非文明的な生活も案外気楽で悪くない。好きなときに眠り、好きなときに食べる。文明は崩壊してしまったが、それでも残った遺産は極論的にすべてオレのものだ。

 ただ一点、この寒さだけは本当に参る。身体を温めようにも熱は厳禁だし、今いる辺りは建物も少ない。しかも小雨まで降ってきた。

 慌てて崩れかかった粗末な小屋に入る。農業の野良小屋だったようで、剥き出しの木の壁に鎌や鍬なんかが立てかけられている。普段は機械に頼っていたのだろう。どれも古びて錆びついており、本来の用途には使えそうにない。

 ではこの小屋は単なる物置なのかというと、どうもそうではなさそうだった。崩れかけの壁に押しつぶされそうになっている棚を漁ると、缶詰や柿の種などの乾き物、いくつもの瓶が出てきた。瓶はほとんど割れて中身が蒸発してしまっていたが、琥珀色の液体が半分ほど残っている無事な瓶を見つけた。部屋の隅のプラスチックケースには毛布や枕まで入っている。平常時は近隣の農家たちの宴会場所として使われていたらしい。

「ちょうどいいや。雨も降ってるし、今日はもうここにこもって宴会だ」

 雨に濡れてしまった上着をハンガーにかけながら振り返る。赤いポンチョレインコートをその辺に放り投げたミィが両手を上げた。

「やったー、エンカイ! エンカイって何?」

「知らねえのに喜ぶのかよ」まあ、文脈から予想はつくのだろうが。

 落ちたレインコートをハンガーにかけ、床に持参のビニールシートを広げる。この数日間でオレは学習していた。コイツに何かをやらせようとすると、逆にこっちの手間が増える。オレ自身が濡れたり汚れたりするのが嫌だから今はやっておいてやるが、別に服をその辺に脱ぎ散らかそうが埃まみれの床に寝転がろうが死にはしない。オレがいなくなったときは自己責任で好きにすればいい。その頃にはすっかり快適さに慣れていて、後悔する羽目になりそうだけどな。

 瓶といくつか見繕ったつまみをビニールシートの上に並べ、リュックからアルミカップふたつを取り出す。

「ご飯? ご飯?」

 嬉しそうに聞いてくるミィに自分用に注ぎ入れたカップを差し出してやると、少し匂いを嗅いだだけで両手で鼻を塞いでしまった。

「くちゃい」

「お子様だな。このふくいくたる香りが判らねえとは」

 鼻で笑いながらカップを傾ける。カッと胃が熱くなり、身体が解けていく感覚がした。

 親父が通で、家の戸棚にはこれよりもっと高級そうな瓶がいくつも並んでいた。実際臭いし酔っぱらいは醜いしで、オレには判らない趣味だったが、こうして飲んでみると少し飲みたくなる気持ちも理解できた。

 疲れや心配ごと、身体の緊張がどんどん抜けていく。冷えきっていた内部から温まってきて、とてもいい気分だ。

 サラミの包みを手に取る。「これ食おう。合いそうだ」

「ジブンもー!」

 カップに入れてやった水を飲んでいたミィがサラミを齧っている。久しぶりにいい気分だし、ろくに自分の面倒も見れない不器用なコイツにも、せめて人類の英知を叩きこんでやるとするか。

 何がいいだろう。短めで、人生に活かせる教訓のある……そうだ。

「おい、ミ……お前、『冷たい方程式』って知ってるか?」

 カップ片手に片膝をつき、身を乗り出す。

「ホーテーシキ? 何それ、美味しいの? あったかいは危ないけど、冷たいも嫌だなあ」

 馬鹿娘は口からサラミを突き出したままキョトンとする。まったくもって無知の極みって顔だ。

「そういう意味の冷たいじゃねえよ。いいか、トム・ゴドウィンっつーSF作家の、偉大な作品のひとつでな……あ、今からネタバレするから気を付けろよ。ってあらすじ教えてやるんだから当たり前だけど。ネタバレは本来読書家が一番しちゃいけない恥ずべき行為なんだからな。そこんとこ覚えとけよ」

「ごどいん? ねたばれ? 何を覚えないと駄目?」

「いいから黙って聞いとけ。あらすじはこうだ。瞬かない星々に囲まれた暗黒空間を進む宇宙船の中で、主人公の男は一人じゃなかった」

「ホシボシって何? アンコククーカン? ウチューセン?」

「お前星も知らねえのか。話が進みやしねえ」

 呆れつつも、隕石落下以降はずっと曇っていたから納得はいく。変な言葉遣いはオレとの会話で次第に矯正されつつあるが、星も知らないとは、やはりコイツは異変後に施設を抜け出してきたのだ。

「星ってのは、夜空に浮かんだ数えきれない小さな光の粒のことだ。実際の星はすごくデカいんだけど……」

 簡単に星と宇宙空間、そこを進む宇宙船の説明をしてやると、アンタレスのように赤く輝く目がうっとりと細められた。

「うわあ、きれーだろうねえ。見たいー」

「晴れたところでお前視力弱いんだろ」

 言ってから気付いた。「そうか。人工の灯りがなくなったから、お前でも見えるかもしれないな」

「ほんとー? 早く晴れるかなあ。そーたと一緒に見るんだあ」

 赤と白の少女はうつ伏せに寝転がって、頬杖をつきながらいつものように髪を指に巻きつけている。改めて、適宜単語の説明を加えながらあらすじを話してやった。

 『冷たい方程式』はいわゆるトロッコ問題のような話だ。地球外の惑星を調査するグループのひとつで致死性の疫病が発生した。主人公の男は一人用の宇宙船でそのグループに血清を届けにいく。

 しかし発進後、船内に密航者を発見した。宇宙船には一人分の燃料しか積みこまれておらず、このままでは血清も届けられず宇宙船は墜落してしまう。そのため密航者は宇宙外へ破棄することが規則で決まっているのだが、密航者は惑星調査中の兄に会いたい一心で規則も知らずに乗りこんできた無邪気な十八の娘だった。

 主人公は娘のために尽力し、その結果娘は両親と兄に手紙を書き、兄と無線で会話する時間を得ることができた。無線が終わると、娘は自ら宇宙空間に身を投じる。果たして冷たい方程式は満たされ、主人公は本来あるべきだった一人になることができたのだった。

「何それ、ひどい!」

 話し終わると途端にこっちの小娘が怒り出した。勢いよく身を起こした拍子に、さっきまで弄っていた髪が反動で苛立たしげに床を打つ。

「女の子可哀想! 死ぬってすごい悲しいのことでしょ? 死なないと駄目なこと、一個もしてないでしょ!」

「本文でも女が似たようなこと言ってたな。ま、オレは無知は罪だと思うけどな」

「知らないのにどうやって判るの! 冷たいホーテーシキのほうを知らないってしちゃえばいいのに!」

「だから所詮作り話だって。お前に似てる無知で無鉄砲な娘も、女子供にやたらと甘い主人公も実際にはいない」

「それでも可哀想だよ! なんでそんな可哀想なお話なんか作るの!」

「考えが浅いな。これだから女は」

 ため息をつきながら、カップに琥珀色の液体を注ぎ足す。

「この話はそういう見方をするんじゃないんだよ。これはSFファンに対する挑戦状なんだ」

「作った人意地悪! なんで悲しい気持ちにするの!」

 猫娘は目を三角にして怒っている。ほんと話を聞かねえというか、単純というか、ただ馬鹿なだけというか。

「だったらお前が、この馬鹿な娘を救う方法を考えてみたらいいじゃねえか」

 三角だった目が丸くなった。「助けるの? ジブンが?」

「そう。この物語の前提設定から、娘が死なずに済む抜け道を考えるんだ。誰も想像しなかったアイデアを捻り出して見事娘を救い、作者と読者たちに一泡吹かせる。そんな挑戦をしてる作家がいっぱいいる」

 いや、『いた』か。内心で訂正する。ミィは「そうなんだ! 人間も捨てるのものじゃないね!」と顔を輝かせて、早速ない知恵を絞ってうんうん唸っている。

 話したのはかなりかいつまんだあらすじだったが、実際のこの作品は単なるテスト問題の枠組みに収まるものではない。無知で無邪気だった娘が状況を把握して急激に成長していくさまや、冷酷に職務を全うしていたはずの主人公の変化。ラストで一人になった男は何を考えるのか。文中にはっきりと書かれていないからこそ読後感は強烈で、いつまでも心の中に残り続けるなかなか厄介な小説だ。

 さっきオレが口にした通り、この話の女と目の前の少女は似ている。物語の中の娘は、死を恐れる自分は利己的な臆病者だと自虐していた。コイツも人のためならきっと自分を犠牲にするタイプだ。なんせ世間知らずの馬鹿だから。

 利己的であることの何が悪いんだ。他人のために思考停止して、死を受け入れることこそ大馬鹿者だ。絶望的な状況でも生き残る術を最後の最後まで考え抜くこと。それはきっといつかコイツの身を助ける力になる。

「そっか。だからそーたはこの女の子と主人公の人のことが嫌いなんだね」

「はあ? なんだよいきなり」

 訳知り顔でうんうん頷いているミィを促す。馬鹿娘はあっと口に手の平をあてて、

「言っちゃってた。うんとね、女の子がジブンに似てるなら、主人公の男の人はそーたに似てるし……あとこの女の子、ちょっとそーたにも似てるし……何もしないで死んでくのが悔しいで悲しいなのかなって」

「はああっ?」オレが馬鹿で無鉄砲なこの女と、女に弱い中途半端な偽善者主人公に似てるだって?

「どこが。お前ちゃんと話聞いてたか?」

「だってそーたはジブンを助けてくれたもん。今だってジブンのためにいろいろしてくれる。優しいとこが似てるよー」

 唖然として力が抜けた。実際は全部コイツのためじゃなくオレ自身のためなのだが、コイツにはそう見えているらしい。多分に『命の恩人』勘違い補正が入った上でのことだろうが。

「まあどうでもいいや、違うっつっても聞きゃあしねえし。それより案、思いついたのか?」

「うん。燃料が一人分だけなら、外からとってくるのがいい!」

「だから宇宙空間だって言っただろ! 出れねえの! 出たら死ぬの!」

「宇宙船を二人用の大きさに作り直す!」

「出たら死ぬって言ってんじゃねえかあ!」

「中から広げるんだよ」

「宇宙船は粘土か何かか!? あと船デカくしたら、燃料余計にかかるだろうが!」

「じゃあご飯を我慢する! その分痩せて燃料も一人分でいい!」

「そんなすぐ痩せるかよ! マジで食いもんのことしか頭にねえな!」

 突っこみすぎて喉が痛くなってきた。カップの中を呷って、新たに注ぎ入れる。

「宇宙船の中から二人で押して燃料少しでいい!」

「お前全然判ってねえな!? メチャクチャすぎて逆にすごいわ!」

 あまりにも奇想天外なアイデアに呆れるを越して可笑しくなってきた。腹を抱えて笑っていると、キャップを開けっぱなしだったボトルが倒れて床に中身が零れてしまった。拭くのは……あとでいいか。それより腹が減った。手当たり次第に缶詰や乾き物の封を開ける。

 缶詰のひとつから指でつまみ上げて食ったら、牡蠣のオリーブオイル漬けだった。

「結構イケる。いいもん置いてんじゃん」

 油で汚れた指を舐めながら言うと、缶詰に鼻を近づけて匂いを嗅いだミィが目を輝かせた。

「何これ、何これ」

「食いたきゃ食えよ」

 牡蠣は美味いけど、食いすぎると蕁麻疹が出るのがネックだ。ミィが頑として食べないチョコレートを口に放りこみながら言ったら、牡蠣を一口食べるなり猫娘は奇声を上げた。

「美味しいすぎ~!」

 そのあとは部活帰りの男子並みの勢いだ。ガツガツと貪り食い、あっという間に平らげてしまった。

「ほんと魚介類好きだよな、お前」

「ギョカイルイ? これヂョカーリュー? ジョカーリーおいししゅぢ、おもりょーい!」

 様子がおかしい。いつもおかしいが、それ以上だ。頭を振り、目は虚ろで、しまいには顔面から床に突っ伏してしまう。

「おい、大丈夫か?」

 声をかけるも、寝そべったまま動かない。思わず手を差し伸べようとすると、いきなりミィの頭が持ち上がった。

「うへへへへへえへへへへへへ」

 猫じゃなく茹でダコだ。真っ赤な顔をして、いつも微笑んでいる口元を極限まで緩め、延々笑い続けている。

 零れたままになっている液体の気化で酔ってしまったらしい。実験施設にも消毒液くらいありそうなものだが……まともな治療さえ受けたことがないのかもしれない。右目だってあの有様だったのだ。実験するだけしておいて、あとは放置されていたに違いない。

 見える範囲には大きな傷跡はないが、もしかして服の下も右目みたいに……?

 ついしげしげとミィの全身を眺めていたら、寝そべっていたヤツがクルリと仰向けになった。笑いながら、マタタビに酔ったみたいにビニールシートの上でぐねぐねと身体を捩り出す。スカートの裾が捲れそうになって、慌てて声をかけた。

「おい、じっとしろ! 余計酔い回るぞ!」

「きゃははははは」

「騒ぐなって! 変な連中に見つかる!」

「ヘン~? ほんとらー。そーたぐにゃぐにゃしてうー」

「なあ、ちょっと落ち着けって――ミィ!」

 咄嗟に出てしまった名前に手の平で口を塞ぐ。ミィは笑いを引っこめて片方だけの目を丸くし、ふにゃりと首を傾げる。

「ミィ?」

「あー……三と一でミィ。猫娘とか三十アレとか、長ったらしくて呼びにくいし」

 さすがに本人に言うつもりはなかった。また実験をしたときのあの顔をされたら敵わない。女特有の陰湿な無言の非難攻撃。更に泣き上戸だったりしたら、面倒くさいことになる。

「ミィ……」

 猫娘はキョトンとした顔のまま、オレが考えた暫定ネームを口の中で呟いていたが、突然ガバッと飛び起きた。

「ジブンの……ミィの名前はミィ!」

 腕に力が入っておらず、すぐにまた床とお友達になっている。しかし覗きこんだ顔はなんとも幸せそうだ。……いいんだ、それで。

「猫みたいな名前で喜ぶとかマジで安い女だな。自分のこと名前呼びして馬鹿っぽさも加速してるし」

 アルミカップを口に持ってきたまま皮肉を言う。ミィは酔いつぶれたみたいにくてんと寝ころびながら、

「猫みたい? ミィってどんな名前?」

 まだ声がフニャフニャしているが、少し落ち着いたらしい。満足そうに目を閉じているミィに今度は国語を教えてやる。

「擬音語ってヤツだ。猫の鳴き声を模した音」

「ミィ……んー、そーかも……」

 声が間延びしてきた。酔い疲れて眠くなってきたらしい。

「そーた、ミィってよく言ってたしねえ……なんのことだろって思ってたけど、あれミィの名前のことだったんだ……」

 気付いていたのか。ギクリとするオレに気付かず、ミィは囁くように先を続ける。

「そーたは……なんで猫が嫌い……?」

「さあな。前はそこまででもなかった気がするけど。ま、アイツら愛想ねえし、犬と違って芸もできない役立たずだからな。なんだ、猫につける名前つけられて不服か?」

 それなら別に変えてやってもいい。オレとしても猫を呼んでるみたいでいい気がしない。人に聞かれたら猫を飼っていると勘違いされそうだ。

 しかしミィは首を振る。「ううん。そーたがつけてくれた名前だし。ミィ、猫好きだし……」

 これで暫定ではなく決定だ。名前までついちまって、そろそろコイツも脇役ぐらいには昇格しちまったかもしれない。

「お前は猫は知ってるんだな」

「それはねえ……そーたと会うのまでにいろんな人が言ってたし、ミィも見たことあるし。……動物はいろいろ知ってる。犬でしょ、鳥でしょ、カラスでしょー……」

 なるほど。オレもカラスを見かけたことがあった。その辺の動物は腹を空かせて人の食い物を狙ったりするだろうから、話題にしている連中も多かっただろう。

「そーたは? そーたの名前はどんな名前?」

「意味なんかねえよ。大方苗字の青と合わせただけ……」

 反射的に答える途中、忘れかけていた過去の記憶が不意に蘇った。

 明るいリビング。抱きしめられた腕の温かさ。頭に載った大きな手の心地いい重み。朗らかな笑い声――。

「青空みたいに大らかで優しい子……とかそんなんだったかな。月並みすぎて笑っちまうけど」

 そんな名前をつけておいて、最期の言葉は『ほんと使えないガキ』だ。人間なんて鬼が人の皮を被っているに過ぎない。

 鼻で笑ってカップを傾けると、小さな声が聞こえてきた。

「ミィは赤でしょ? じゃあ一緒だね。ミィは赤で蒼太は青……」

 すぐにすうすうと寝息に変わる。今まで馬鹿っぽい呼び方をしていたくせに、さっきの『そうた』は違って聞こえた。漢字なんて知らないはずなのに、意味を知って思いをこめたような。

「……色も判んねえくせに。混ざったら紫だぞ。この状況じゃシャレになんねえよ」

 呟いて、カップの中身を飲み干した。あれだけ熱く感じた液体は冷えきっていて、胃に落ちこみオレの全身を冷やしていった。


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