第25話
片山中学校・2年4組。
重苦しい教室で、今日もまた“それ”は起きていた。
椎名悠人――体の大きな少年。だが、心は誰よりも静かで脆かった。
「おい、また机クサくなってんぞ。誰か、除菌スプレー持ってきて~」
「でっかい図体で、よくお腹減らねえな。お前のメシ、野犬みたいで笑えるわ」
椎名の弁当が、机ごと引っくり返される。
笑うのは、クラスの中心にいる少年―佐藤陽翔(さとう・はると)。
小柄で声が高く、顔立ちは整っていたが――その目には快楽の色があった。
彼にとって暴力は、“遊び”だった。
「いじめ」などという感覚もなく、ただ人を壊すことに笑っていた。
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教師――水谷は、それを見ていた。
いや、見ていなかった。
目の前でパンが潰されても、机が揺れても、
「またか」と曖昧に笑ってやりすごす。
――だが、内心は分かっていた。
佐藤には注意できない。
家庭が厄介、親はクレーム常習、成績は上位。
「触れてはいけない存在」として教員たちの中でも暗黙の了解があった。
代わりに――水谷は、注意しやすい子にだけ、声を上げた。
「○○さん、髪結び直してね。校則違反だよ」
「△△くん、その発言はダメ。書き取ってないでしょ」
波風の立たない“指導”だけをして、教師としての形を保っていた。
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ある放課後、ついに椎名が筆箱からカッターナイフを抜いた。
「笑うな」
「これ以上、俺を壊すな――!」
佐藤に向けて振り上げられた刃。
それは、制服の袖を裂く寸前で止まり、悲鳴と沈黙が、教室を支配した。
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翌日、職員室で、水谷は一人、頭を抱えていた。
「どうすればよかった……?
でも……私が佐藤に注意したところで……火に油を注ぐだけだったんだ……」
誰にも聞かれないはずのその呟きに――草履の音が答えた。
「“避けられる者”を避け、“従う者”だけを叱る。
それは、指導ではない。“恐れ”からの逃避なり」
声の主は――宮本武蔵だった。
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屋上。
椎名、水谷、そして佐藤の3人を前に、武蔵は木刀を立てた。
まず、水谷に言った。
「お主は、“正しさ”ではなく、“楽さ”を選び続けた。
注意すべきは、目立つ者ではない。“力を振るう者”なり」
水谷は震えながら答えた。
「でも……私は弱いんです。
あの子たちに睨まれたら、授業も保てない……」
「されど、“教師”とは、人を導く者なり。
“保つこと”よりも、“守ること”をせよ」
水谷は、唇を噛んだまま、何も言えなかった。
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続いて武蔵は、佐藤に視線を移した。
「お主は、笑っていたな。
人が怯え、泣き、壊れる姿に――悦びを覚えていた」
佐藤は、笑みを消さず、軽く言った。
「だって、あいつデカいのに、何も言わないんだもん。
つまんなそうに座ってるだけで、イラッとするし」
「ふむ。“壊すことでしか己を示せぬ者”、哀れなり」
武蔵は、木刀を振り上げる素振りを見せた。
風が一閃、佐藤の足元を吹き抜けた。
佐藤は、初めて、目を見開いて一歩後ずさった。
「人を斬る刃は、手に持つ刃ではない。
“笑って壊す心”こそ、最も鋭き刃なり」
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最後に、椎名へ。
「お主が持ったカッター、それは叫びであり、痛みであり――そして、選べたはずの“別の道”でもある」
「……でも俺は、誰にも助けてって言えなかった。
だって、誰も見てなかったから」
「違う。誰も“見ぬふりをしていた”だけだ。
されど今、お主の刃は、沈黙を斬った」
武蔵は木刀を収めた。
「次に斬るべきは、“怒り”ではない。“自らを許せぬ心”なり」
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数日後。
教室で、水谷が椎名の机の前に立ち、深く頭を下げた。
「……椎名くん。今まで本当に、ごめん。
今度から、私は逃げない。何かあれば、必ず君の味方になる」
椎名はうつむいたまま、短くうなずいた。
その隣では、佐藤が沈黙していた。
誰も笑わず、誰も軽口を叩かない、静かな教室だった。
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屋上。
宮本武蔵は空を仰ぎ、静かに言った。
「“暴力を楽しむ者”と、“暴力を恐れる者”のあいだに、
誰かが立たねばならぬ。
されど、最初に立つべき者は、いつだって――“大人”なり」
風が抜け、片山中に、小さな新しい“まなざし”が生まれ始めていた。
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