七人目:快適空間

午前0時。きっかり、その時間に俺は目を覚ました。


「んがっ……!」


豚のような、自分でも情けないと思うような音を立てて、俺は上半身を跳ね起こした。普段から重度の無呼吸症候群で、自分のいびきや呼吸停止で夜中に何度も目を覚ますのは日常茶飯事だ。

だが、今日の覚醒は、いつもと何かが違う。まるで、脳の芯を直接叩き起こされたような、やけに鮮明な感覚だった。


45歳、独身。

腹は出っ張り、頭は薄くなり、健康診断の結果は毎年右肩下がり。そんな俺の唯一の城であるワンルームマンションは、真夏だというのに、まるで巨大な冷蔵庫の中のような空気に満ちていた。

俺は極度の暑がりで、汗っかきなのだ。節電などやってられない。

エアコンの設定温度は、常に18度の強風。これが俺のジャスティスであり、文明の利器がもたらした唯一の救いだった。


そんな極寒の部屋の隅、漫画雑誌のタワーがそびえ立つ一角が、ぼんやりと光っていた。


「さっむ……。おい、お前、シロクマか何かか?」


見ると、2枚組のティッシュをはがしたときみたいに半透明な、人型のナニカが、ガタガタと震えながら宙に浮いていた。その姿は、あまりに威厳がなく、なんというか薄汚れた幽霊のようだった。


「……誰だ、あんた。ドロボーなら、金目のもんはねえぞ。この部屋で一番高いのは自慢のエアコンだ」

「ドロボーだってもう少し暖かい部屋に忍び込むわ。なんだよこの温度設定。しかも空気がこもって淀んでるし、風邪ひきそうだ。ちょっと温度あげるぞ」


そういって設定温度をあげようとしていたので、リモコンをひったくった。


「おい、何しやがる。俺は神様だぞ」


神様?

俺の脳が状況を理解するより早く、神様はキレ気味に続けた。


「お前、昨日、道端のゴミ拾いしてたろ。ボランティアの兄ちゃんが一人で健気にやってるの見て、手伝ってやっただろ」


言われてみれば、そんなことがあった気もする。暇だったから、なんとなく手伝っただけだ。偽善と言われればそれまでだが、まあ、見過ごすのも寝覚めが悪かった。


「ああいう偽善っぽくねえ善行、俺は嫌いじゃない。ご褒美だ。お前にスキルを授けてやる」


スキル? なんだそりゃ。俺はもう、人生に何かを期待するような歳じゃない。


「お前のその、異常なまでの暑がり体質。それに応えてやろう。お前の半径1メートルの空間の温度を、常にお前にとっての『適温』に保ってやるスキルだ。後、汗臭いから空気清浄機能も付けてやる」

「……はあ」

「なんだよその気のねえ返事。ありがたく受け取れや! これでエアコン代も浮くだろ!」


神様はそう言うと、寒さに耐えかねたのか、そそくさと消えていった。

後に残されたのは、静まり返った極寒の部屋と、なんだかよくわからない能力を授かった、一人の汗っかきデブだけだった。


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翌朝。俺は、いつものように汗だくで目を覚ます……はずだった。

だが、どうだ。パジャマはサラサラ。額に汗は一滴もかいていない。それどころか、肌を撫でる空気が、まるで高原の朝のように清々しい。

エアコンは、昨夜のまま18度設定で轟音を立てている。だが、これまでのような密室を無理やり冷やしたような空気ではなく、俺の周りだけが、快適な温度と湿度、そして清涼な空気に包まれているのだ。


「……マジかよ」


スキルは、本物だった。

俺は、生まれて初めて、夏の朝を快適に迎えたことに、静かに感動していた。

試しに、エアコンを止めて窓を開け放った。途端に、むわりとした熱気が部屋を満たしていく。だが、俺の半径1メートルだけは、依然として快適なまま。まるで、見えないドームに守られているようだ。


後日、俺はその月の電気代の請求書を見て、二度目の感動を味わうことになる。先月の半分以下。神様、あんた、最高だよ。


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その効果が真に発揮されたのは、会社への通勤時だった。

じりじりとアスファルトを焼く太陽。まとわりつくような湿気。普段なら、駅に着くまでにシャツが肌に張り付き、滝のような汗で周囲に不快感を振りまいていたはずの俺が、今日はまるで涼しい顔をしている。汗が一滴も出ないのだ。

周囲の人間が、顔をしかめ、ハンカチで汗を拭いながら歩いているのを横目に、俺は一人、春の陽気の中を散歩しているかのような気分だった。


会社に着いても、快適さは続く。

我が社は、SDGsだか何だか知らんが、夏場のエアコン設定温度は28度厳守。毎年、俺のようなデブにとっては、拷問のような環境だった。

だが、今日の俺は違う。


「あづい……。総務、エアコンの温度下げてくれよ……」

「ダメですよ、経費削減です!」


そんな同僚たちの地獄の会話をBGMに、俺は一人、自分のデスクで快適な温度に包まれている。周りの不快な空気が、まるで透明なバリアで遮断されているかのようだ。


隣の席のOL、鈴木さんが、うっとりとした表情で俺を見つめてくる。


「なんだかその席、涼しそうですね……。ちょっと、そっち行ってもいいですか……?」


彼女は、まるでオアシスに引き寄せられる砂漠の旅人のように、俺のデスクににじり寄ってきた。俺の半径1メートル、そこは、このオフィスにおける、唯一のサンクチュアリなのだ。


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このスキルを手に入れてから、俺の人生はバラ色……とは、残念ながらならなかった。

確かに、夏の不快感からは解放された。だが、新たな問題も生まれたのだ。

その最たるものが、満員電車だった。


以前の俺は、その巨体と、半径2メートル以内にいる人間の体力を奪うほどの熱気と汗によって、満員電車内でもある程度のパーソナルスペースを確保できていた。人々は、俺という熱源を、本能的に避けていたのだ。


だが、今の俺は違う。

俺の半径1メートルは、常に快適な「適温・清涼ゾーン」。

その結果、どうなったか。


「……ち、近い……!」


人々が、俺の快適ゾーンに、吸い寄せられるように密集してくるのだ。

右も左も、前も後ろも、人、人、人。以前よりも、明らかに圧が強い。俺の快適空間を共有しようと、人々が俺に体を押し付けてくる。


「なんか、このへんだけ涼しくない?」

「ほんとだ、ラッキー!」

「電車って臭いから嫌だったんだけど、なんかここだけ快適だね」


そんな声が聞こえてくる。ラッキーなのはお前らだけだ。俺は、四方八方から押し寄せる圧力で、窒息寸前だ。

快適な温度と、最悪の人口密度。それは、まさに天国と地獄が同居する、奇妙な空間だった。


ある週末。俺は、長年の趣味であるサウナへと向かった。

汗をかき、水風呂で体を締め、そして外気浴で「ととのう」。これぞ、中年男の至福のひとときだ。

俺は、いつものようにサウナ室の扉を開けた。むわりと襲い来る、灼熱の空気。室温は90度。完璧なコンディションだ。


俺は、最上段に陣取り、じっとりと汗が噴き出してくるのを待った。

5分経過。……汗が出ない。

10分経過。……おかしい。全く熱くない。

周りの男たちが、滝のような汗を流し、「あー」とか「うー」とか、奇妙な呻き声を上げている。だが、俺の周りだけが、まるで避暑地のコテージのように快適なのだ。

スキルが、サウナの熱すらも「適温」に変換してしまっているらしい。


「兄ちゃん、すごいな。全然汗かかねえじゃねえか」


隣に座っていた常連の爺さんが、感心したように話しかけてくる。


「は、はあ……。ちょっと、体質で……」

「それにしても、兄ちゃんの周りだけ、なんか涼しくねえか? 気のせいか?」


気のせいじゃない。俺の半径1メートルは、灼熱のサウナ室に突如として現れた外気浴コーナーなのだ。

結局、俺は一滴も汗をかくことなく、サウナ室を後にした。水風呂も、ただの冷たいプールにしか感じられない。

熱々の高温風呂に入ってみたが普通の風呂と変わりなかった。


「ととのう」どころか、ただただ、虚しいだけだった。俺のささやかな楽しみが、神の奇跡によって奪われてしまった瞬間だった。


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夏の盛り、ある日の昼下がり。

俺は、昼飯を食いに外へ出た。容赦なく照りつける太陽の下、人々は日陰を求めて足早に歩いている。だが、俺は平気だ。俺の周りだけは、快適な初夏の陽気。

そんな時だった。

駅前の広場で、人だかりができていた。野次馬根性で覗き込んでみると、若い女性がぐったりと地面に倒れ込んでいる。顔は真っ赤で、呼吸も浅い。熱中症だ。


「誰か、救急車を!」

「しっかりしろ!」


周りの人々は、慌てふためくばかりで、誰も有効な手を打てていない。

俺は、どうするべきか迷った。俺にできることなんて、何もない。そう思った、その時。ふと、神様がくれた、この奇妙なスキルのことを思い出した。

俺の周りは、常に適温。もしかしたら……。


俺は、人混みをかき分け、倒れている女性に近づいた。


「すまん、ちょっと通してくれ」


俺は、女性を軽々と、しかし慎重に抱きかかえた。その体は、火のように熱い。


「おい、あんた、何するんだ!」

「日陰に運ぶだけだ。救急車は呼んだんだろうな?」


俺は、近くのビルの日陰まで彼女を運ぶと、そっと地面に横たえた。そして、俺は彼女のすぐ隣に座り込んだ。俺の半径1メートルの「適温ゾーン」が、彼女の体を包み込むように。


すると、俺の快適な空間に包まれた彼女の体から、ふっと熱が引いていくのがわかった。荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いてくる。真っ青だった顔に、僅かに血の気が戻ってきた。

やがて救急隊が到着する頃には、彼女は意識を取り戻していた。


「……すごい応急処置でしたね。的確な冷却が、功を奏したようです」


救急隊員に褒められたが、俺はただ、隣に座っていただけだ。

俺は、名乗ることもなく、その場をそそくさと立ち去った。

胸の中に、今まで感じたことのない、奇妙な温かいものが広がっていくのを感じていた。


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夏が過ぎ、季節は冬になった。

俺は、冬が嫌いだ。俺は、暑がりで、寒がりなのだ。矛盾しているようだが、事実なのだ。

だが、特に今年の冬は急に気温が下がって今日から極寒だ。

俺は、タンスから取り出した厚手のダウンジャケットを着込んで外に出た。


――暑い。

めちゃくちゃ、暑い。

外気は氷点下を下回っている。だが、俺の半径1メートルは、春のように暖かいのだ。そこに、ダウンジャケットという名の防寒装備してしまったものだから、俺の体は、灼熱地獄に叩き込まれたも同然だった。


額から、玉のような汗が噴き出す。スキルを手に入れてから、初めてかく汗だった。


「はあ、はあ……。あづい……」


俺は、周りの人々が白い息を吐きながら歩いている中、一人だけ、真夏のような顔で、ダウンジャケットを脱ぎ捨てた。

中は、Tシャツ一枚。

道行く人々が、俺を奇異なものを見る目で見ていく。


「あの人、寒くないのかしら……」

「まあ、あの体形だから」


この日を境に、俺の冬のファッションは、Tシャツ一枚になった。すっかり、近所の名物デブおじさんになってしまった。


そんなある、凍えるように寒い日の夕暮れ。

俺は、近所の川沿いを散歩していた。川面には薄氷が張り、寒々しい景色が広がっている。


その時、「キャン!」という、甲高い鳴き声が聞こえた。

見ると、一匹の小型犬が、誤って川に落ち、氷の張った水の中でもがいている。飼い主らしき老婆が、岸辺で「誰か、誰か助けて!」と叫んでいるが、この寒さの中、川に飛び込める人間などいるはずもなかった。


俺は、一瞬ためらった。だが、夏の日の、あの熱中症の女性のことが頭をよぎった。

俺のこの力は、こういう時に使うためにあるのかもしれない。

俺は、着ていたTシャツを脱ぎ捨てると、躊躇なく川に飛び込んだ。


「うわっ、冷たっ……くはない!」


氷点下に近い水温のはずの川の水が、俺の体に触れた瞬間、まるでぬるま湯のように温かくなった。スキルが、川の水すらも「適温」に変換したのだ。

俺は、犬のもとまで泳いでいくと、その小さな体を抱きかかえた。犬は、寒さで震えていたが、俺の腕の中に抱かれると、その震えが少しずつ収まっていくのがわかった。俺の快適ゾーンが、犬の体温を奪われるのを防いでいるのだ。

岸に戻ると、老婆が泣きながら俺に駆け寄ってきた。


「ありがとうございます、ありがとうございます……!」


俺は、犬を老婆に手渡すと、濡れた体でその場を去った。


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俺は、いつものようにスーパーで買い物を済ませ帰る途中だった。

その時、少し先に黒い煙が立ち上り、人々のざわめきが聞こえてきた。


野次馬根性を抑えきれず近づいていくと、古い木造アパートが火事だった。炎はすでに建物を飲み込み、黒い煙が夜空を焦がしている。消防隊はまだ来ておらず、近所の人たちがバケツリレーで必死の消火活動を行っているが、火の勢いは衰える気配がない。


「大変だ! 2階に、まだ子供が残ってるらしいぞ!」

「なんだって!?」


野次馬の中から、そんな悲痛な声が聞こえてきた。見ると、アパートの前に一人の女性が泣き崩れている。


「ダメだ! 火の回りが早すぎる! この熱じゃ、中には入れん!」


その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あのスキルがよぎった。

俺の周りは、常に適温。サウナの熱すら、無効化するこの力が、もし、この炎の中でも通用するのなら……。

馬鹿な考えだとは思った。だが、女性の泣き叫ぶ声と、炎の向こうに見えるはずの子供の姿を想像したら、足が勝手に動いていた。


「おい、あんた、危ない!」

制止する人を振り払い、俺は燃え盛るアパートの中に飛び込んだ。

ゴウ、と地獄のような熱波が俺を襲う。だが、俺の体に届く直前で、その熱はふっと掻き消えた。俺の半径1メートルだけが、嘘のように涼しい。

中は、黒い煙で何も見えない。だが、その煙も半径1メートルに近づくとふっと消えた。

俺のスキルは温度調整だけではなく、空気清浄機能も付けてもらっていたから、害のある空気が浄化されたのだ。

俺は、急いで階段を探した。


「誰か、いないかー!」


声を張り上げる。

すると、奥の部屋から、か細い咳き込む声が聞こえた。


「……こほっ、こほっ……!」


いた!

俺は、声のする方へ向かう。ドアは熱で変形していたが、俺は体重をかけてそれをこじ開けた。

部屋の隅で、小さな男の子が、布団にくるまって泣いていた。


「坊主、大丈夫か! 助けに来たぞ!」


俺は、男の子を抱きかかえた。幸い、火傷はないようだ。

俺の腕の中に抱かれると、男の子の咳が少しだけ和らいだように見えた。俺の周りの快適な空気が、少しはマシな呼吸をさせているのかもしれない。

俺は、来た道を戻り、炎と煙の海を駆け抜けた。


外に出ると、割れんばかりの歓声が上がった。

俺は、男の子を母親の元へ届けると、人々に肩を叩かれた。


「あんた、すげえな!あの火の中を、平気な顔で!」


俺は、何も答えず、人混みの中に紛れ込むようにして、その場を立ち去った。

物理的なススまでは浄化しきれなかったので、服は汚れ買い物袋も落としてしまったが、気分は悪くなかった。


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スキルを手に入れてから、一年が経った。

俺の人生は、劇的には変わらなかった。相変わらず、独身で、しがないサラリーマンだ。

だが、確実に、何かが変わった。


夏は汗をかかなくなり、冬は寒さを感じなくなった。

満員電車は相変わらず地獄だが、以前よりはマシだ。

サウナの楽しみは失われたが、たまに人の役に立てることがある。


そして、俺の周りには、物理的に人が集まるようになった。

夏は、俺の周りに涼を求めて人々が集まり、冬は、暖を求めて人々が集まる。

俺のデスクは、いつしか、部署の憩いの場になっていた。


「君の周りはなんか落ち着くわー」


どうやら半径1メートルに入っていなくとも、そこから漏れ出た清涼な空気が周囲を快適にしているらしい。


熱中症の女性を助けたこと、川で犬を助けたこと。そして、火事から子供を助けたこと。それは、誰にも話していない、俺だけの秘密だ。


神様がくれた、この奇妙なスキル。

それは、世界を救うような大それた力じゃない。

ただ、汗っかきのデブが、ほんの少しだけ、快適に生きていくための力。

そして、時々、誰かの役に立つこともできる。


これからも俺は、この快適な日々を変わらず過ごしていくのだ。

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神様の人間観察プロジェクト~なんかスキルを与えてみよ~ アカミー @asa82551

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