第1章 死に際の贈り物 ②指輪の女-2


1.2.2 ネオン街の夜


階段を降りるたびに、街の喧騒が近づいてきた。

壊れかけた照明、雨に濡れたコンクリの匂い、腐った雑居ビルの空気。

最上階から一歩ずつ下界へ戻るたびに、俺は生に引き戻されていく感覚がした。


本当は、あそこに置いてくるはずだったんだ――


全部。


けど、ポケットの中の冷たさだけが、やけにリアルだった。

黒い指輪。あれがまだ、俺の中に“次”を残していた。


ビルの外に出ると、雨はすっかり止んでいた。

街は濡れていたけど、空気はすでに次の夜を受け入れている。

アスファルトには水たまりが点々と残っていて、街灯やネオンの色をゆらゆらと映していた。



繁華街の中心。

若いやつらの匂いがする場所。


夜になれば、駅から流れてきた人間たちが、このあたりで本性を晒す。

学生のふりをした売春女、ホストに貢ぐババア、スーツ着た社畜、外見だけのインフルエンサー。


薄っぺらくて、汚くて、でも――

俺の何倍も“生きてる”やつら。



通りを歩く。

あいつらの笑い声が、あちこちから聞こえてくる。


「マジやばくない?」

「てかキモいんだけど」

「それガチぃ」


そんな声。

俺の人生には、一度も縁のなかった類の音。


香水の匂いが風に乗って鼻先を掠める。


甘ったるくて、どこか人工的で、でも……

それが妙に心をざわつかせた。



視線を向ければ、足音も軽やかに、スマホ片手に笑っている女たち。

ヒール、ミニスカ、キラキラしたバッグ、不自然な睫毛。


どいつも似たような格好をして、同じ顔をして歩いているのに――

なぜか、目が離せなかった。



水たまりの反射に、女たちの脚が揺れて映る。

赤、白、ベージュ、光沢のあるタイツ。

揺れる膝。

弾む声。

すれ違う香り。


死ぬ気だったくせに、俺は今、確かに生きていた。


「……どうせ死ぬなら、最後に一発くらいやり返してもいいよな」


口に出してから、自分で驚いた。


やり返す?

誰に? 何を?


それがはっきりわからないまま、でも俺は確かに、腹の奥でなにかが蠢いているのを感じた。


俺は、この街で笑っている“勝ち組”に、一度もなれなかった。

いや、それ以前に、あいつらの輪郭にすら触れたことがなかった。



笑って歩ける――

それだけで勝ちなんだ。

人を馬鹿にできる側で、他人の上に立って、踏みつけて笑えるやつら。


上から見下ろされるだけの人生を終えて、せめて一度、逆の位置に立ってみたかった。


そう思ったとき、ふと湧いてきた考えに、自分の脳がざらりと軋む音を立てた。


「……若い女になれたら、俺の人生は勝ちだったか?」


え?


いま、何を言った?


俺は立ち止まった。

視界の中で、ネオンが滲んでいた。


若い女――

あの笑って歩いてる、無自覚な優越を背負ったあいつら。


あいつらに生まれてたら?

違う。

あいつらになれたら……?


思ってはいけないことだと、本能がどこかで警告していた。

けれど、もうその声は小さかった。

むしろ、今まで黙っていた“それ”が、ようやく言葉になったのだと感じた。



俺は……

なりたいと思っていたのか。


若くて、綺麗で、男にちやほやされる側に。


ずっと、心のどこかで見下してたはずの“女”に。


「俺がああだったら」って、冗談でも言わなかったくせに。


だけど今、ようやく口にできた。

俺は、若い女になりたいんだ。


勝ちたいんだ。

生まれつきの札束のような、あの顔と年齢と性別で。


ふと、ポケットの中で冷たさが強くなった。

黒い指輪。


あの老婆がくれた、不気味で意味不明な異物。

触れていないのに、そこに確かに“いる”感じだけが、やけにリアルだった。


ガヤガヤという雑踏の音の中で、俺はひとり立ち尽くしていた。


目の前を、若い女たちが笑いながら通り過ぎていく。

群れになって、列になって、スマホで写真を撮りながら、俺なんて見向きもしない。


そう――


あいつらは、俺のことなんか見ない。


でも、俺は見ている。


誰よりも、じっと、執拗に、見ている。


次は。

もし、あの中に“俺”が混ざっていたら。


「……誰も、気づかないかもしれないな」


そう思った瞬間、胸の奥がぞわりと泡立った。


それは、何かが生まれる予感だった。

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