第1章 死に際の贈り物 ②指輪の女-1


1.2.1 屋上の老婆


雨は細くて冷たかった。

この街のどこにでもあるような、くすんだビルの屋上。

駅の裏手にぽつんと取り残された雑居ビルのその最上階に、俺は立っていた。



フェンスに手をかける。

鉄の冷たさが、手のひらの温度をすぐに奪っていく。

下を見ると、にじんだネオンと雨粒が滲んで混ざって、ぐちゃぐちゃの光の海みたいになっていた。

あそこに落ちたら、さぞ綺麗に全部消えるだろう。


苦しむ間もなく。




スマホを取り出す。

画面のヒビ越しに、メモアプリを開く。

そこには、誰宛でもない文章が打ち込まれていた。

いや、遺書と言えるような代物でもない。ただの、呟きの延長だ。


《もう十分だ。誰にも必要とされない命でした。さようなら。》

文末に「w」とか「笑」とかつけたくなるほど、自分でも滑稽だった。

……誰にも読まれないのにな。


スマホの画面を閉じて、ズボンのポケットに押し込んだ。

風が強くなった。

フェンスの向こう、空と街の境界がゆらゆらと揺れている。


あと一歩。

それだけだった。


「――その命、まだ使い道があるのにねえ」


背後から、そんな声がした。


ぎくりとする。振り向くと、そこにいたのは老婆だった。

ボロボロの布を纏っていて、雨に濡れているのにまったく気にしている様子はない。


足取りはふらふらとしていて、風が吹けば倒れそうなくらい細い。


なのに――

目だけが、異様に冴えていた。


光を吸い込んだような瞳。

俺の全身を見透かしてくる。


「……誰?」


思わずそう言った。

声がかすれていた。

喉が痛い。


老婆は名前も名乗らなかった。

ただ、俺の方へ一歩、また一歩と近づいてきた。


「死ぬのは好きにすればいいさ。でもその前に、お前みたいなやつにしか渡せないものがある」


そう言って、彼女は懐から何かを取り出した。

それは、黒く光る指輪だった。

金属とは違う、石のような光沢。


黒曜石のような――

いや、それ以上に不気味な黒さ。


濡れているはずなのに、まったく水を吸わず、ただ静かに冷たく光っていた。


老婆はその指輪を、俺の目の前に差し出した。


「強く望んだ相手がいれば……ふふ、まあ、お試しあれ」


わけがわからなかった。

何を言ってるんだ、こいつは。


けど、目が離せなかった。

指輪の内側には、何か文字のようなものが彫られていた。

でも、それは逆さで、しかも肉眼ではほとんど読めないほど細かい。


「なんだよ、これ……」


手が、勝手に動いた。

無意識に、俺はその指輪を受け取っていた。


軽い。

あり得ないくらいに軽い。


けど、冷たい。

氷のように冷たかった。


「なんで……俺に?」


そう訊こうとしたその瞬間、風が吹いた。


目を閉じ、次の瞬間に目を開けると――

老婆はもう、どこにもいなかった。


煙のように、霧のように、跡形もなく消えていた。

雨は、もうほとんど止みかけていた。


俺の手の中には、ただ黒く冷たい指輪だけが残っていた。


「……なんなんだよ」


呟いた声が、夜の空に吸い込まれていった。

下の世界では、変わらずネオンが瞬いている。人々は、誰もこの屋上のことなんて知らない。


見渡しても、もう誰もいなかった。


まるで――

最初から、俺とその指輪しか、この世界には存在しなかったかのように。

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