第四十話『饗宴の騒ぎ』

 光経の追及は大きな物音と男の大声によってかき消された。


 なにかが起きた。呉乃は二人にばれないようそっと抜け出し、物音が聴こえてきた宴の中央へ視線をやる。


「有庸! しっかりせよ有庸!」


 料理が盛られた器や酒の入った瓶が倒れている。そしてその傍らには伴有庸が仰向けで倒れており、父である瀑男がしゃがみ込んでいた。


 だがそれだけだ。周囲の人々はなにかを恐れるように距離をとって眺めているだけ。


「大納言様! お下がりください!」


 騒ぎの中に是実が登場し、瀑男を下がらせる。さらに有庸の身体に触れて顔色を確認した。


 呉乃もまた有庸の顔を見る。すっかり血の気を失って土気色となった顔、唇もやや紫がかっている。さっきから瀑男が大声で呼びかけても反応がなかった。どこをみているか分からない目と苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。


 尋常な状態ではない。呉乃はもっと近くで状態を確認するため有庸へと近づいていく。


「有庸殿! 聴こえていたら返事をするのだ! 有庸殿!」


 瀑男に代って今度は是実が呼びかける。しかし帰ってくる反応は嗚咽だけだ。


 このままではまずい。是実はそう思ったのか視線が卓上を滑り、ある場所で止まる。


「すまぬ! どなたか水を! そこの水差しを――」


「なりません!」


 是実が水差しを取ってもらおうと呼びかけたそのとき、呉乃は声を張り上げた。


 周りにいる人間が何事かと呉乃へ視線を集める。


 やんごとなき方々の視線に晒される中で呉乃は急いで是実へと近づく。


「呉乃、なにを言って」


「水を飲ませてはなりませぬ。もしも毒だとすれば巡りを早くさせてしまいます」


「ど、毒だと!? 滅多なことを」


「もしもの話です。離れてください。汚れます」


 主人を半ば押しのけるようにして割り込む呉乃。手で脈をはかり、口元に耳を寄せる。


「おい貴様、我が息子になにを」


「まだ息がある」


 大納言である瀑男も無視して呉乃は顔をあげる。首を振って周りを見てまたすぐに声を張り上げた。


「是実様! その桶です!」


「なに? 桶だと?」


「その桶をとってください! 早く!」


 公衆の面前で仕えるべき主人に命令をする側女――端から見ればなんとも無礼な女だが、呉乃のあまりの剣幕に皆口を挟むことができない。


 是実も大人しく従い下女が持っていた桶をもらって近くへと置いた。


「呉乃、お前なにをするつもりだ」


「助けるだけです。失礼」


 一方的に断りを入れると同時に呉乃は有庸の身体を転がしなんの躊躇いもなく口に手を突っ込んだ。


「がっ! あがぁっ!」


 うめき声をあげ有庸が勢いよく胃の中の物を吐き戻した。


 どぼどぼと固形物だったものが桶へと落ちて悪臭が広がる。


 周りの人々は袖で口を隠して下がり、呉乃を軽蔑するように見下ろす。


「なにしておるか! この端女が!」


 だが有庸の父である瀑男だけは黙っていなかった。下がっていたはずなのに再び前に出て呉乃へ笏を振りかぶる。


 このままでは吹き飛ばされる。いや、それだけではなく救命行為も中断されてしまう。


 だがこの距離はもうどうにもならない。呉乃はせめて痛みを少しでも和らげようと腕を上げて顔を守る。


(……あれ?)


 しかしいつまで経っても痛みと衝撃は訪れない。呉乃がおそるおそる目を開けると、そこには呉乃を庇うように是実が間に立っていた。


(是実様? なぜ私を……?)


「是実! そこをどかぬか! このまま有庸を殺す気か!」


「大納言様、どうか落ち着いてください。この者は私の供の者。此度はこの宴席で手伝いをさせていたのでございます」


「貴様の供だと? だからなんだというのだ! 貴様儂に弓引くか!」


「滅相もない。この女官は薬学に通じており毒にも詳しいのです。この行いもご子息を一刻も早くお助けするためにやったこと」


「なにを言うか! 口に手を入れて息の根を止めようとしていたではないか!」


「それは――」


「それは胃の中の毒を取り除くために必要なこと」


 瀑男の言葉に答えたのは是実ではなく藤原光経だった。小首をかしげて口元を笏で隠し冷たい目で瀑男を睨む。


「毒の症状を抑えるには薬が有効だが、身体の中から毒を取り除くためには排泄か嘔吐しかない。その女官は身体の中の大部分の毒を取り除くために胃の中を吐かせたのだろう。そうだな?」


 光経が呉乃を見下ろす。突然の問いに呉乃は身も守るためにあげた腕をおろして頷く。


「もちろんでございます。決して大納言様やご子息を害するつもりなど」


「処置は早い方がいい。責を問うなど後からで十分であろう」


 今度の言葉は瀑男へのものだ。呉乃は倒れている有庸を起こして顔色を観察する。


 唇の色が変わり血の気も薄くなっている。震えている様子から見るに体温が下がっているのかもしれない。


(念のためもう一度吐かせるつもりだったが危険か? いやしかし……)


 うつ伏せにしてお腹を押す。桶に半分頭を突っ込んだ状態の有庸は「うぐっ」とうめき声をあげてまた吐いた。


 吐しゃ物が落ちる音が響く。桶を覗き残留物を確認し、もう一度お腹を押す。


「うっ、ぐぅっ……」


 うめき声をあげるがなにも出てこない。呉乃はひとまず有庸を担いで立ち上がった。

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