第二十二話『門の前で無理やり』

「あら是実様。今日はお早いお帰りで」


 朝帰りをしてきた是実を迎えてくれたのは側付きの侍女である呉乃――ではなく、女房頭の秋葉あきはだった。


 是実がまだ童だったころから家にいる古参の女房だ。いつも穏やかな表情をしているが、恐ろしくひっぱたく力が強い。是実にとって頭の上がらない相手のひとりだ。


 しかし最近は呉乃がよく働いているのもあって大人しくしていてほとんど隠居状態ではあった。


「秋葉が迎えてくれるとは久しいな。なにかあったのか?」


「まさか、私はただの女房でございますから。主人あるじを迎えるのは当然でございます」


「そなたの主人は私ではなく父上であろう。その父上もお隠れになった今、もう役目を辞して隠棲しても構わぬのだぞ?」


「まぁ是実様、女人を年寄り扱いとは。どうやら女を口説くにはまだまだ経験が足りていないようで」


 勝ち誇ったかのように秋葉が笑う。その笑みにまだ若いころの彼女と子供だった自分を思い出し、是実は目を伏せて自嘲する。


「……あぁ、そうだな。もっと勉強せねば」


「そうですよ若様、日々勉強です」


「若様はよせ、秋葉」


 軽やかに笑いながら是実を迎え入れそそくさと準備を進める秋葉。相変わらずの口達者に是実は懐かしさを感じ同じように笑う。


 呉乃がこの邸に来る前は身の回りのことはほとんどこの秋葉がやってくれていた。


 当時のことを思い出しつつ墨染の直衣から浅葱色のひとえに着替える。


「それで? 呉乃はどうしたのだ? なにか別の仕事でもしているのか?」


「えぇ、えぇ、あの娘なら今重大な仕事をしております」


「重大な仕事? 私がいない間になにかあったのか?」


「えぇ、それはもう――」


「びえぇえぇっ! ぶえぇえぇっ! びえぇえぇっ!」


 秋葉がなにかを言おうとしたところで声がかき消された。


 赤子の泣く声だ。なぜこの邸で赤子が。是実は前に回ってきた秋葉を見下ろす。


「秋葉、今のは……」


「あぁ、苦戦しているみたいですね、あの娘は」


 振り返って呑気な調子で秋葉が呟く。苦戦しているという言葉と赤子の鳴き声に是実の顔から血の気が引いていく。


 もしやあの側女に子が。常に是実の側にいて付きっきりで仕事をしていたというのに、いつのまに子供など産んだのか。


(いや、産んだことはもはや気にすることではない。問題は相手が誰なのかということだ)


 あの呉乃が。いつもうっとうしそうな仏頂面をしていたあの娘に男など。


 一体どんな男だというのか。その男は母と子を放っておいて今頃どこで遊んでいるのか。なぜ主人である自分になんの相談もなしに産んで育てているのか。


 一度に複数の疑問が浮かび上がる。とにかくここは本人に確かめるほかない。


「秋葉、呉乃は今どこにいる?」


「あの娘なら今部屋に籠りきりでございますよ。ゆえに私が今日お出迎えを」


「そうか、ご苦労だったな秋葉」


 早口で礼を言って是実はそのまま部屋を出る。渡り廊下を歩いて東の対屋へ。奥にある女房部屋の中でも一番小さな私室の格子戸をあけ放った。


「呉乃! いるのか!」


 そこにいたのは呉乃――だけではなく見知らぬ女性もいた。というより、まさしく授乳中だった。当然赤子も一緒だ。


 是実の突然の登場に三者三葉の反応をする。呉乃はやや疲れた顔で振り向き、見知らぬ女性は驚いて目を丸くし、赤子は是実を無視して乳を飲んでいる。


「是実様。おかえりなさいませ」


「あぁ……呉乃、そちらの姫君は?」


「あらやだ、姫君だなんて」


 赤子を抱いたまま女性が屈託なく笑う。衣がはだけて胸が丸見えになるが、特に動揺することなく「おっと」なんて言って乱れを直す。


「お初にお目にかかります高篠少将様、乳母の小菊こぎくでございます」


「乳母だと? ということはその子はやはり……」


「小菊殿は大畝おおうねの公治きみひろ様の妻女、珠江たまえ殿から紹介していただいた乳母です。是実様が不在のときに人を招くのはどうかと思いましたが、乳母の確保は一刻を争う問題だったので、勝手ながらご助力いただいております。申し訳ございません」


 呉乃が早口でまくしたて、深々と頭を下げる。


 珠江といえば先の『髪盗り鬼』の騒ぎにて罠にかけられてしまった女性だ。呉乃の機転によりなんとか犯人扱いから免れ、今は夫である公治と互いに支え合いながら仲睦まじく暮らしていると是実は聞いていた。


(しかしなぜ珠江殿と呉乃が? いや、今はそんなことよりも目の前の赤子だ)


 改めて赤子を見下ろす。まだ顔のつくりもはっきりしていない玉のような赤子。驚くほど小さく可愛らしいが、父親のことなどを思うと素直に微笑むことなどできない。


 是実は神妙な顔をして呉乃と向き合った。


「いや、そういう事情ならばよい。子を飢えさせるわけにはいかぬからな。公治殿には礼の品を贈っておかなければ。小菊殿、しばらく頼む」


「えぇ、お任せください少将様」


「ありがとうございます。是実様」


「ところでだ。呉乃」


 きりっと凛々しいまなざしで呉乃を見る是実。普通の女性ならばこれだけで胸が高鳴ってしまうが、呉乃は特になにも思わない。真剣な表情をしている是実に対して「なんでしょうか」と平坦な抑揚で返事をする。


「この赤子は一体なんなのだ。誰の子だ」


「誰……さぁ、それが分かれば苦労しません」


「なっ! 誰とも知らぬ者の子だというのか!? 誰ぞ心当たりはないのか!?」


「ないですね。少なくとも私にはありません」


「なんという無責任な……妻と子が困っているというのに行方知らずとは……そもそも、なぜ私に赤子のことを相談しなかったのだ」


「仕方がないでしょう。なにせ急なことだったのですから」


「急なこと……? 待て、その相手とは何度か通ってるわけではないのか? 一夜の過ちとでも? もしくは、無理やりではないであろうな?」


「それを私に聞かれても……まぁ、無理やりといえば無理やりではありますね。なにせ出会ったのは朝に門の前でしたから」


「そんなところで無理やりだと! なんということだ! なぜ助けを呼ばなかった!」


「いや、だから私が助けをですね……捨ておくわけにもいかなかったので」


 興奮して問い詰める是実だったが、呉乃は終始冷静だ。むしろ若干呆れている節すらあった。


 見知らぬ男に襲われて望まぬ子を孕んだというのになぜこんなにも気丈なのか。側女の精神の強靭さに主人である是実はもはや心配を通り越して不気味さすら覚える。


 とにかくこの赤子について色々と調べなくては――是実が目を大きくしたり小さくしたりと動揺していると、赤子に乳を飲ませていた小菊が顔を伏せて笑いだした。

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