第二十一話『間一髪』
「姫様はお母上のことをとても想われているのですね。よろしければこの是実にもお話をお聞かせください」
「まぁ、でも少将様に家の問題など……ご迷惑ではございませんか?」
「とんでもない。姫様が抱える胸の内を少しでも軽いものにしたいのです。お母上は一体なにに悩んでおられるのですか?」
「母上は最近まで元気だったのです。二人目を授かったと言っていとおしそうにお腹を撫でていました」
笑顔のまま是実が固まる。夫とはもうずいぶんご無沙汰だったと聞いており、言ってしまえば是実はその寂しさに付け込む形で彼女との関係を持ったのだが、まさか子供が出来ていたなんて。
もしかすればその子の父親は――
「でも、三日ほど前に月の障りが来たみたいで。すっかり子を授かったと思っていた母上は大層落ち込んでしまって……」
心の中で胸をなでおろす是実。授かった子供の父親問題はどうにか回避できたようだ。
無論悲しみに暮れる表情は崩さない。眉間に皺を寄せて「なんと……」なんて言いながらゆっくりと首を横に振る。
「それであのように疲れたご様子で……そうだったのですか」
「どうすれば母上は元気を取り戻してくれるのでしょうか……」
姫君が眉を下げて落ち込んでしまう。
悩みを解決するならば、間違いなく子を授かるのが一番だが、そうなると解決は難しくなる。
夫である右小弁が励むのがなによりの解決方法なのだが、それができれば是実がこうして夜に会いに来ていない。
無論是実ではだめだ。色々と問題が複雑になってしまう。
結論としては今すぐどうにかすることはできないということだ。
「そうだ! いいことを思いつきました!」
花が咲くように笑顔を見せる姫君。慌てて女房の鏑木が「姫様、お声が」と制する。
姫君ははっとして小さな手で口をおさえる。その後母親が寝ているであろう部屋を見て、ふぅっと息を吐いた。
「姫様、なにか妙案でも思いついたのですか?」
「はい、私が子を授かればいいんです」
是実が笑顔を浮かべたまま固まる。
黒目だけを動かすと女房の鏑木もまたその場で固まっていて、鈴虫の鳴く声だけがかすかに響く。
限りなく遅い時間が流れ、幼い姫君がきょとんと首を傾げる。
そこでようやくふたりは正気に戻り目を瞬かせた。
「姫様……その、子を授かる、というのは……」
「母上に中々子が授からないのなら、私が子を産めばいいのです。だから是実様、どうか私にややを授けてください」
「なっ!」
「ひ、姫様!」
口を開いて絶句する是実。目を輝かせてなにかを期待している姫君から距離を取る。
(ま、まさかこのような子供からも求められるとは……幼いころから罪な男と言われてきたが、ここまでとは。いやしかし、母親譲りの美貌、そして聡明さ。子と共に育て上げれば絶世の美女とその娘が……)
最初は驚いていたというのに、是実はいつの間にかその気になっていた。
顎を指で撫でて姫君を観察する。さすがに是実の好みではないが、それでも光り輝くものを持ってはいる。
是実はふっと笑い、再び姫君の手を取り、さらにその上から自身の手を重ねた。
「申し出、とてもありがたく存じます。ですが姫様が子を授かるにはいささか早い。姫様がお母上のような美しい女性となられたそのとき、この是実のことを憶えてくれているのなら、すぐにでも馳せ参じましょう」
「まぁ少将様……本当ですね? 約束ですよ?」
「この是実、女人との約束だけは違えませぬ」
最後にまた微笑み、是実は立ち上がる。
どうにかうまいこと話がまとまったようだった。女房の鏑木が是実と目を合わせて頷き、姫君を奥へと連れていく。
ひとり取り残された是実は踵を返し、裏口から邸を出る。
「是実様」
裏の戸を出てすぐに牛の低い鳴き声と男の声が聴こえてきた。
振り向くとそこには是実の従者である杜雄とコトコという名の牝牛がいた。いつも通りの手はずに是実は「うむ」なんて言って牛車に乗る。
「杜雄、あとでこの文を届けておいてくれ」
「はっ、先ほどの姫君にですか?」
「あぁ、そうだな。だがしばらくは通わない方がいいかもしれぬ。ふたりの姫君には気の毒だが……女人との逢瀬はいついかなるときも甘く危ういものだ」
月を眺めながら遠い目で是実が語る。
「そうだ、明日は久しぶりに
「四条、というと、
「あぁ、
穏やかな言葉と共に是実は愉しげに笑う。
柿の木に上った小鬼を思い出す。思えば拾ったばかりの呉乃もあれに近い行動をしていて、是実だけではなく高篠の家人全員から距離を取っていた。
しかし今や是実以上に家人達と仲が良い。ふとしたときに笑みもこぼすようになったらしい。
だが時折暗い表情でどこか遠くを睨んでいる。おそらくあの男のことを考えているのだろう。
「まだ若い身空で復讐に憑りつかれるとは……なにか気を紛らわせることでもあればいいのだが……」
牛車の中で是実が呟く。しかしその声はしっとりとした暑さの夏の夜に溶けて消えていくだけだった。
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