第三幕

第二十話『朧月夜の逢瀬』

 涼し気な風が袖を揺らす夏の黄昏時。京の都の治安を守護する左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょう高篠たかしなの是実これみつはとある貴人の邸を訪れていた。


 公的な訪問ではない。この邸の主である右小弁うしょうべんが今だけいないことは知れている。


 ゆえに訪れた。用意しておいた花を持ち、庭へと入った。


 木々から垂れた葉が肩に触れ、しゃらりと音を鳴らす。


 訪問相手の姫がいるであろう御簾の前、簀子の上に花を一輪置く。香りと足音に気づいた姫の人影が御簾の中で動き、置いた花に触れる。


「……これは?」


 御簾が開き姫が顔を見せる。是実の姿を見て頬をほのかに染めた。


「まぁ、少将様。かようなときにおいでとは」


「今宵、月下の芙蓉ふようがはかなく揺れて、ふと微笑む貴女の横顔を思い出したのです」


「まぁまぁまぁ、そんな。あぁ、少将様」


 垂れたまなじりをほっそりとさせて姫が迎え入れる。


 是実は花を姫に渡し、そのまま彼女の手を取った。


「貴女に触れたくて、気づけば訪れていました。どうかお許しを」


「あぁ少将様、もちろんです。さぁおいでになって」


 姫に誘われて邸へと上がる是実。御簾の中へと入り互いに触れ合う。


 是実が頬を撫でると姫が蕩けた顔で身をあずけてきた。


「こんな寂しい夜に少将様がいらしてくれるなんて……あぁ、わたくし、この広い邸に子と二人きりで、震えていたのです」


「私が来たからにはなにも怯えることなどございませぬ。貴女も姫君も、右小弁に代わりこの是実がお守りいたしましょう」


 甘い声で囁きながらするりと御衣みけしを解いていく。


 首筋に唇で触れ、真っ白なおみ足を撫でる。


「少将様……我が子のことまでも想ってくださるのですね」


「もちろん、ですが今は貴女ことしか考えておりません。どうすれば、貴女の心の奥底まで私自身を刻めるのか。ただそれだけです」


「まぁ少将様ってば……あぁ、そんな……」


「今だけです。今だけはここに私と貴女のふたりきりだ。さぁ姫……」


「少将様……」


 ゆっくりと夜が更けていく。


 是実にとっては特別な時間であり同時に当たり前の日常だ。


 煩わしいまつりごとを頭の隅へと追いやり、麗しき貴人との逢瀬を楽しむ。


 日々の英気を養うため、是実は目の前の情事に精を尽くした。






 夜のしじまがそっと崩れるように、遠く漏刻ろうこくの太鼓が響いた。


 ぼんやりとした意識の中で是実は湿気が身体を包み込むのを感じ取り、無造作に髪をかき上げる。


(もう寅の刻か……うむ、そろそろ出なくては)


 身体を起こして薄闇の中で袖を交わした姫の寝顔を見る。ぐっすりと眠っていて、是実が動いても起きる気配は見受けられない。


 今日のところはこのまま立ち去ろう。是実はそそくさと身だしなみを軽く整えて部屋を出る。


 裏口へと回るため廊下を歩いていると、灯りを持った女房が姿を現した。


「まぁ少将様、お帰りでございますか?」


「あぁ、これはこれは鏑木かぶらぎ殿」


 反射的に微笑む是実。鏑木というやや年増の女房は薄暗い廊下のしかも間近で色男の微笑みを直視してしまう。


「お帰りでしたらこちらへ。どうかお気を付けくださいまし」


 袖で顔を隠しながらも、女房はちらちらとこちらを見てくる。


 こんな風に見られるのは既に慣れたものだ。是実は特に気にすることなく廊下を進む。


 邸の東側、ひさしの奥にある蔀戸しどみどが見える。従者の杜雄もりおが牛を繋いで待っているはずだ。


「かぶらぎ? ここにいるのですか? 鏑木」


 後ろから子供の声が聴こえてきた。


 是実と女房が振り向くと、そこには女の子が立っていた。眠たそうに目をこすっている。


 見た目からして十二歳くらいか。おそらくここの娘だろう。是実がどうするべきか固まっていると、女房がすぐに女の子のもとへ向かう。


「まぁまぁ姫様。こんな夜更けに一体どうなさったのです?」


「母上が眠れているか心配で……あら? そちらのお方は?」


 姫君が是実の存在に気づく。女房がちょうど間に立っているため、灯りで是実の顔が照らされ、ぼんやりと浮かぶ。


 是実もまた姫君の顔を見る。母親をそのまま子供にしたようなその顔に思わず破顔した。


「姫様、このお方は――」


「……高篠少将様?」


 女房の言葉を遮って姫君が大きく目を見開く。どうやら目は覚めたらしい。


 知られているのならば仕方がない。是実は姫君へ近づき微笑みかけた。


「こんな夜更けにお許しください、姫様。私は京の治安を守る権少将、高篠是実と申すもの。密命あってこちらへと立ち寄った次第でございます」


「まぁ、そうだったのですか……少将様。聞きしに勝る……まぁ、まぁまぁ」


 是実が手をとって囁くと姫君は頬を赤く染めて上目遣いで見つめてくる。


 閨での母親の面影を見ながらも、是実は一切の動揺もせず畳みかけていく。


「私がこの邸にいたことは誰も知らないことになっております。お母上もお父上も」


「あぁ、そうなのですね……ならば私も忘れた方がよろしいのですか?」


「いいえ、姫様だけは憶えていてください。私と姫様、朧月夜おぼろづきよの秘め事として……」


「まぁ……少将様……」


 もう片方の手で頬をおさえて姫君が照れる。隙間を縫うように女房が姫の後ろへと回り、そっと背中に触れた。


「さぁ姫様。奥様ならもう眠られておりますから。大丈夫ですよ」


「本当? ならいいのだけれど。また泣いていたりしない?」


「えぇ、今日はもう大丈夫ですよ。お心安らかに眠っておられます」


「そう、良かった……母上」


 寂しそうに名を呼ぶ姫君に是実は眉を顰める。


 確かに先ほど閨の中で見たときあまり顔色が良くなかった。それにこの姫君がしきりに眠れているのか心配しているということは、なにか悩みを抱えているのかもしれない。


 麗しき女人の悩み事は何事においても優先されるべき事柄だ。是実は片膝をついて姫君と視線を合わせ、少女の顔を覗き込んだ。

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