19.「勇者覚醒」

 灼熱の大広間に足を踏み入れた瞬間、息が焼けた。


 肺に入る空気すら火傷のようで、汗が一気に噴き出す。

 目の前に座す巨躯の魔族――炎牢ファルネウスは、俺たちを睨み下ろしている。


「ここが貴様らの墓標となるだろう」


 大地を震わせるような声が洞窟全体に響いた。


「……行くぞ」


 俺は聖剣を構え、仲間に目配せした。

 ゴドフリーは盾を前に押し出し、ミランダは杖に魔力を込め、フローラが小さく祈りを口にする。


 俺たちは迷いなく、目の前の怪物に挑んだ。


「勇者様、【速聖の奇跡スピード・ミラクル】!」


「【大地豪盾グランド・エギス】」


 フローラの支援魔法が俺の足を速くする。ゴドフリーの盾が前に出て壁として大きくなる。


「今だ!リカルド!」


「ああ! 【浄焔聖断セイントフレイム・セイバー】!」


白焔をまとった聖剣が振り下ろされ、灼熱の大広間に一筋の光が走る。炎を喰らう炎、聖の力がファルネウスの巨体へと迫る。


「私も合わせるわ! 【大豪雪折衝グランド・アヴァランチ】!」


 ミランダの杖先から吹き荒れるのは極寒の嵐。氷塊が矢のごとく弾け飛び、ファルネウスの炎を削り取ろうとする。

 だが――。


「無駄なこと、燃え尽きろ――【地獄絵炎ヘルフレア】!」


 振り下ろされた魔族の腕から、熔岩の奔流が生まれた。洞窟全体を埋め尽くすような炎が唸りをあげ、天井から真紅の雨となって降り注ぐ。


「くそっ……防ぎきれん!」


 ゴドフリーの分厚い鋼鉄の盾が瞬時に赤熱し、みるみる歪んでいく。表面が焼け爛れ、火花を散らしながら崩れ落ちそうになる。

 フローラが治癒の光を放つが、癒えた皮膚もすぐに熱で焼かれ、効果が追いつかない。


「はぁ————【心象聖炎華イマジナリー・セイクリッドフレア】っ!」


 俺は剣を振り抜いた。内奥のイメージを炎へと変換し、剣閃が奔流を切り裂く。

 だが、次の瞬間にはその裂け目を埋めるように二倍の熱波が襲い掛かり、押し返される。


 ――刃が届かない。


「リカルド、落ち着いて!」


 ミランダの声。


「私が体勢を立て直すわ、あなたは下がって! 【凍結結晶咳フロスト・クリスタルブレス】!」


 彼女の放つ蒼白の氷槍が炎を貫こうとしたが、触れた瞬間に爆ぜて蒸発。轟音と白煙が爆発し、爆風が俺たちを薙ぎ払った。

 轟音が耳を打ち、仲間の悲鳴がかき消される。


 ――強い。

 四天王の一角。あのときの戦いは本気でなかったというのか?


 全身を襲う熱、喉を焼く空気、立っているだけで意識が遠のく。


「弱い」


 ファルネウスが吐き捨てた。


「その程度の刃で、再び挑んでこようとは——【炎柱黒界インフェルノ・プリズン】」


 次の瞬間、赤黒い炎の柱が地面から噴き上がった。それは瞬く間に俺たちを囲み、炎の牢獄となる。

 逃げ場はない。空気は灼熱に閉ざされ、酸素が奪われていく。


「……囲まれた」


 ミランダの顔が蒼白になる。


「これじゃ……外へ出られねぇ」


「皆さん、目の前に敵に集中してください!【治癒の奇跡ヒール・ミラクル】」


 フローラの治癒光が広がるが、それも一瞬で効果を失う。肌が常に焼かれ、焦げる。

 そして、ゴドフリーの盾はついに砕け散り、膝をついた。


「どうすりゃいいんだ……!」


「もう、終わりだわ」


 仲間の声が響く。

 俺は歯を食いしばり、剣を握り直す。


 足は熱で鉛のように重く、体力も魔力も削られていくばかり。

 仲間は、おそらく俺よりも限界だ。


 もう数秒と持たないかもしれない。このままでは全滅する。


 せめて仲間だけでも——。


 いや、そうじゃない。仲間”だけ”でも?

 それが勇者の言う事か?


「はっ……」


 俺の仲間は、この三人だけじゃない。ナディアだってそうだったじゃないか。俺が選んで、俺が仲間に誘った。


 それだけじゃない。


 共に戦ってくれた兵士、炎牢城への道のり助けてくれていた誰か、生きとし生きる者……人類の希望が、俺だ。

 勇者だ。


 けれど今の俺は、ただ炎に押し潰されるだけの無力な剣士だ。


 その時だった。

 脳裏にふっと、ある光景が浮かんだ。


 ――リカルド様へ。


 あるときから、ぱったりと無くなった手紙だ。

 勇者に選ばれるまで机の上に密かに置かれていた。


 今もその手紙は、家にある。


 どうして忘れてしまっていたんだろう。


 あの手紙を書いてくれていた”誰か”は、見ていてくれているんだろうか……。

 今も、どこかで。


「こんなところで負けるのが勇者の使命じゃない」


 ここで倒れるわけにはいかない。

 あの人が信じてくれた“リカルド”は、こんなところで終わる存在じゃない。


 剣を握る手は震えていた。

 炎柱は壁のように迫り、もう視界の半分を飲み込んでいる。


「まだ終わらせない!」


 その時――俺の剣が、微かに脈打った。


 握り締めた聖剣の柄が、たしかに鼓動していた。

 ドクン、と自分の心臓と重なるような脈動。


 鞘に収まりきらぬ白光が、亀裂から漏れるように震えていた。


 勇者の証として手渡された王国の秘剣。

 仲間を守るには力不足で、四天王の力には届かない。


 ――だが今。

 この剣が、俺の胸の鼓動と同じ速さで脈打っている。


 炎の轟きの中で、声が聞こえた。


 「リカルド様」


 優しい声。幻聴だとわかっていても、胸を貫く。

 どうしてか、それはナディアの声だった。


(……ナディア)


 思い出す。

 絶望した夜にかけてくれた言葉。傷ついたときに必ず寄り添ってくれた温もり。

 そして――走り去っていった、彼女の背中。


 こんな俺をまだ見守ってくれているというのだろうか。


 炎に閉ざされ、逃げ場のないこの状況。

 守るべき仲間、世界――彼女。


 その全てを背負えなければ、勇者なんて名乗れない。


「……違う」


 俺は唇を噛んだ。


「勇者だから戦うんじゃない。俺が……俺自身の意志で、守りたいから戦うんだ!」


 その瞬間、聖剣が輝いた。


 白銀の刃が眩い光を放ち、炎牢の炎を押し返す。


 熱気が裂け、周囲の空気が一瞬で清らかに変わった。

 俺の中に、今まで感じたことのない力が流れ込んでくる。


「な、何だと……!?」


 ファルネウスの咆哮が響く。

 奴の炎が膨れ上がり、牢獄をさらに強化しようとする。

 だが――刃は揺るがなかった。


 光はさらに強まり、俺の全身を駆け巡る。

 手足が軽い。体を縛っていた重圧が、嘘のように消えていく。


 俺は一歩、前に踏み出した。


 炎が道を塞ぐ。

 だが聖剣を振り抜いた瞬間、その炎は裂けて霧散した。

 赤熱の壁が砕け散り、道が開けていく。


「リカルド……!」


 ゴドフリーが叫んだ。

 ミランダの瞳が見開かれる。


 フローラの祈りの声が、止まった。


 俺は振り返らない。ただ前を見る。

 そこに立つのは、炎の四天王ファルネウス。


「これが……勇者の力か」


 自分の口から洩れた声が震えていた。


「面白くなってきたじゃないか、勇者!」


 ファルネウスが炎の巨腕を振るう。

 熔岩をも巻き込み、洞窟を揺らすほどの一撃。


「はぁぁぁぁっ!」


 俺は聖剣を振り抜いた。

 刹那、炎と光がぶつかり合い――轟音と閃光が洞窟を満たす。


 紅蓮の牢獄を、真っ二つに切り裂いた。


「ふっ……!想像以上だ」


 ファルネウスがたじろぐ。


「俺は勇者リカルド・エンブリオ。仲間を……世界を……そして――」


 ほんの一瞬、ナディアの姿が脳裏に浮かぶ。


「大切な人を守るために、俺は戦う!」


 熱と光が交差し、戦いの均衡が遂に並んだ。

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