アリスガワスレタコト
@Kosakiemile
アリスガワスレタコト
少年は昔から大したことをしてこなかった。大したことの起こり得ない日常だった。その日も常の中の一コマで、少年はウサギを追いかけただけだった。そうしたら、いつの間にやら穴ぼこの中で、下半身に風を受けながら、ああ、自分は落ちているんだなぁ、と思った。暫くして、いや、それは正確ではなかった、と気づく。彼は雨上がりの有栖川を、落葉と共にプカプカと下っている最中だった。体はゆったり漂って、川面に半分ほど浸った耳から、淡水の上機嫌がよく伝わった。
少年は、眩しい青に目を眩ませながら、自分のからだが、仰向けに流されていることに感謝した。彼は溺れた事があったからだ。あれはいつの話だったか、遠い昔のような、ついさっきのような気もする。鼻の穴から水が侵入し、気管を通り、口の中までも侵食し、肺を満たしたあの記憶は、今も胸にその感覚が残るほど、彼の人生の中に最も色濃く刻まれている。少年は再び感謝した。うつ伏せではなく仰向けであるから、鼻に水は入らず、こうして美しい空を眺めることができるのだ。しかし、それも正確ではなかった。彼が見ているのは川底であり、流れる雲は石であり、空飛ぶ鳥は魚であった。そして彼がそれに気づくことはなかった。
少年はうつ伏せに空を見ながら、なんともなく、彼の人生、今までの事を回想し始めた。思い出すのは嫌な事ばかりなので、少しはいい事を思い浮かべようと努力した。徒競走の一番や、コンクールの賞、修学旅行の夜遅く。どこにでもあるような平凡が、彼にとっての幸せだった。しかし、少年はスレた子だったから、いつしかそれら俗物を嫌悪した。彼の座右の銘は超俗であった。大したことのない日常は、年端もいかぬ少年に、俗を忌避する修羅の道を歩ませた。道案内役は、懐中時計を持った白ウサギ。彼はただそれを追いかけ、それが彼の人生の終わりの始まりだった。
そうだ、ウサギだ。少年は気づいた。ウサギは一体何処にいる。高田橋の欄干から、飛び跳ねるのを見たきりだ。あの逃げ足の速いウサギ。ついぞ後ろ姿しか見ることのなかったウサギ。逃げるウサギ、それを追う僕。跳ぶウサギ、それを追う僕。いや、待て、果たして、逃げているのはウサギなのか?逃げているのは僕じゃないのか?後ろから僕を追ってくる、なにかもっと恐ろしいものから、ウサギは僕を逃しているんじゃないか?
彼を追うものの存在を認知しても、決して少年は背後を振り向こうとしなかった。それは彼の矜持故でもあり、鼻に水を入れたくないからでもあった。だが実際振り向いたとして、彼が見るものは、やたらと青く輝く、どこまでも平凡な空でしかないのだった。少年を運ぶ水流は、いつの間にか桂川へと合流していた。
まあいい、兎に角ウサギを追わなければ。少年は四肢を動かし、川より這い出ようとした。が、身体はピクリとも反応しない。少年は焦って、今度はジタバタと暴れようとしたが、やはりまるで微動だにせず、石のように硬くなった自分の関節を意識させるだけだった。血の気はとっくに引いていた。その時、川上からの流木が、少年の頭部に直撃した。彼の躰はそのまま流木の下敷きになり、体内に僅かに残っていた空気も排出され、水の中に沈んでいった。水底に鼻をつけて初めて、少年は自分がうつ伏せだったことを認識した。そして、忘れていた、自分がもう動けない理由を思い出した。
彼にはやり残したことが沢山あるはずだった。それは家族であり、学校であり、好きな子であり、スポーツクラブであり、友達であり、漫画の続きであり、お小遣いであった。彼は自分の俗さ加減にほとほと呆れたが、それ程嫌いではなくなっていた。彼は今更、自分の幸せを思い出した。
お仕舞に、少年はウサギを見た気がした。ウサギは振り返ってこちらを見ていた。その目は水底の石に似ていた。
アリスガワスレタコト @Kosakiemile
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