第1章 第2節 宛名のない手紙
郵便局の重い扉を開けると、インクと紙の匂いが混じった、淀んだ空気が茜を迎えた。
「おはよう、高坂さん。 今日も早いね」
パートの田中さんが、カウンターの向こうから声をかけてくる。 彼女の明るい声は、この静かな局内で唯一、時間の流れを感じさせるものだった。
「おはようございます」
茜は、感情の乗らない声で返した。 愛想が悪いわけではない。 ただ、声の出し方を忘れてしまったような感覚が、もう何年も続いているだけだ。 ロッカーに上着をしまい、エプロンを身に着ける。 鏡に映る自分の顔は、能面のように無表情だった。
仕分け作業は、茜にとって一種の瞑想だった。 住所、名前、郵便番号。 膨大な情報をただ正確に、機械的に処理していく。 指先が記憶した動きに思考を委ねている間だけ、頭の中から余計なものが消えてくれる。
郵便物の山と無心に向き合っていた茜の目の端に、一通の、少しよれた封筒が横切った。宛名の上には、無機質な赤色のスタンプで「宛所不明」と押されている。差出人の欄には、少し震えた、老人のものと思われる文字があった。
――この手紙は、家に帰れなかったんだな。
茜は、ふとそう思った。書いた人の想いも、時間も、貼られた切手の代金も、すべてが無駄になって、ただの紙切れとしてここに戻ってきた。この手紙が旅した距離と、その末の徒労を思うと、胸の奥が小さく軋んだ。 陽菜も、迷子になることを、ひどく怖がっていた。 茜は、その感傷を振り払うように、規定に従って封筒を「還付不能」の箱へと仕分ける。それが、自分の仕事。感情を挟む余地はない。
そうやって、心を無にしようとしていた、そのはずだった。ひと月ほど前から、この完璧なルーティンに、もうひとつの、決して還付されることのない手紙が、不協和音のように混じるようになるまでは。
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