返事はポストの中

草野 灯 (クサノ トモリ)

第1章 第1節 黙っていた声

朝の静寂は、水を含んだ古いスポンジのようだった。 音という音をすべて吸い込んで、重たく、冷たく、町の隅々にまで染み渡っている。 高坂茜の耳に届くのは、規則正しくアスファルトを打つ自分の靴音と、制服の布地が擦れる微かな音だけ。 五年前から、茜の世界はこんなふうに、少しだけ真空に近い。


路地の向こうから立ち上る春先の霧が、街灯の光をぼんやりと滲ませていた。 もう散り終えたはずの桜の花びらが、まるで誰かの忘れ物のように歩道の隅に吹き寄せられている。 その吹き溜まりの先に、それは佇んでいた。


古びた、赤いポスト。


茜がこの町の郵便局に勤め始めてから、ずっとそこにある。 おそらくは、茜が生まれるよりもずっと前から。 赤い塗料は長年の風雨にその肌を削がれ、下の鋼が覗く部分は鈍い錆色に変色している。 投函口の縁だけが、無数の手紙に撫でられ続けたせいで、滑らかな黒光りを帯びていた。 まるで、そこだけが今も生きているかのように。


茜は、いつもその前で一瞬だけ足を止める。 特別な理由はない。 ただ、その赤い箱が、自分と同じように、誰にも届かない何かをずっと待ち続けているような気がして、ほんの少しだけ共感を覚えてしまうからだ。 妹の陽菜(ひな)が姿を消したあの日から、茜の中にも、宛先のない手紙が溜まり続けている。

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