第40話 救済




 瓦礫と化した大地に、生と死の境界線が横たわっていた。


 フェリックスの必死の治療により、かろうじて一命を取り留めたライアットの瞼が重そうに持ち上がる。


 彼の顔色にはまだ生気がなく、深手は覆い隠せない。

 傍らではゼフィラがその手を握りしめ、彼の呼吸を見守っていた。


 ラーンとドラン、そして彼らの兵士たちはヴァニタスの蠢く巨大な影に警戒を怠らず、戦場は一時的な静寂に包まれていた。


「……謝罪も……礼も言わねぇぞ……」


 ライアットは力なく呟いた。

 その声には助けられたことへの感謝よりも、自身の弱さへの苛立ちが滲んでいるかのようだった。


 フェリックスは複雑な表情でライアットを見つめた。

 憎悪と割り切れない血縁の真実が彼の心を揺さぶっていた。


「……貴方がアークライト王家の血筋というのは、本当ですか」


 フェリックスは震える声で問うた。

 ライアットは、うんざりしたように視線を空に向ける。


「知らねぇよ……母親がしょっちゅうそう言ってた」


 その言葉はまるで他人事のように冷淡だった。

 フェリックスは苛立ちを募らせる。

 家族を失い、人生を捧げてきた真実の根幹が曖昧な「母親の妄言」で片付けられることに耐えられなかった。


「……母親の名前は? 王家の系譜にその名がないと貴方の言葉は信じられません!」


 フェリックスは自らの内に募る感情を抑えきれずに詰め寄った。

 しかしライアットは質問には答えず、ただ嫌悪を露わにする。


「王家の系譜に妾の名前が載るわけねぇだろ……」


 ライアットの冷たい声が響いた。

 その一言は彼自身の複雑な生い立ちを明確に物語っていた。

 フェリックスは怒りのあまりに我を忘れて妾の名前が系譜に載らないことすら失念してしまっていた。


「貴方の母親の妄言という可能性もあるのでは? だとしたら、貴方はただの一方的な逆恨みで王家を滅ぼしたことになる!」


 フェリックスは苛立ちを隠さなかった。

 その言葉は、自身の憎悪が果たして正当なものだったのか、その根源を揺るがす恐怖から来るものだった。


「……るせぇな……仮にそうだとしても……裏社会で俺がクソみてぇな生活させられた事実は消えねぇ……ずっとそれを放置してた王家に、全く責任がねぇと言えんのかよ!?」


 ライアットの言葉にフェリックスは口元を歪ませる。


 彼らの間に再び罵り合いが始まった。

 それは単なる口論ではなく、それぞれの過去と決して癒えることのない傷跡が剥き出しになる、壮絶な言い争いだった。


 ライアットの内から噴き出す負の感情が、瓦礫の陰に蠢く『神・ヴァニタス』の顕現体へと吸い込まれていくのが見えた。


 僅かに弱まっていたヴァニタスの力が再び黒いオーラをみなぎらせ、その存在感を増していく。

 ライアットの心はまだ、ヴァニタスの支配と自我の間で激しく揺れ動いていた。


「ライアット、落ち着いて! もういいから!」


 ゼフィラはたまらず、ライアットの身体を力強く抱きしめた。

 彼の硬く、冷たくなっていた身体が彼女の腕の中でわずかに震える。


 ゼフィラのキューピットの光がライアットの感情の波を鎮めるように優しく包み込んだ。

 彼の背中から伝わる僅かな熱と、その中に宿るヴァニタスの冷たい波動。


 ゼフィラは、すがるようにそっとライアットの頭を撫でた。


「大丈夫だから! 大丈夫だよ、ライアット。もう一人じゃないから! 話は後でいっぱい聞くから。だから、今はもう休んで……」


 彼女の優しい声と温かい抱擁が、ライアットの身体から僅かに力を抜かせた。

 ヴァニタスの黒いオーラも、一時的にだが静まった。


「…………」


 ライアットはゼフィラを抱きしめようと一瞬だけ思った。


 しかし、自分のその血まみれの手を見て思いとどまる。

 今まで犯してきた罪にまみれた手で、ゼフィラを抱きしめていいのだろうか。


 何気なく頭を撫でることはあったが、抱きしめるのはそれとは違う。

 フェリックスの言っていた通り、自分は誰かに愛されたり愛したりする資格なんてないのでは……――――


 ライアットが葛藤しているその時……


 不意に、ライアットはヴァニタスの感覚から殺気を感じた。

 彼はゼフィラの身体を咄嗟に突き飛ばす。


「ッ!!」


 間髪入れずに、ライアットの胸に強烈な魔力の奔流が突き刺さった。


 それは瓦礫の中に埋まったはずのカラスが放った、渾身の一撃だった。

 彼は半身が瓦礫で潰れながらも、執念で生き残っていたのだ。


「ライアット!!」


 ゼフィラが叫ぶ。

 ライアットの胸からは、今までとは比べ物にならない量の血が噴き出した。


「ぐっ……!」


 致命的な傷だった。

 彼の体から、急速に生命の光が失われていく。


 ライアットはまだ息のあったカラスに向け、最後の力を振り絞った。

 彼の全身からヴァニタスの憎悪と怨嗟が混じり合った漆黒の魔力がほとばしる。

 それは、彼の世界を憎み続けた人生の全てを乗せたような最大の一撃だった。


「ざまぁみやがれ……」


 その一撃は執念で生き残ったカラスの存在をこの世から完全に消し去った。

 肉体が砕け散るような音すらなく、跡形もなく消え失せた。


 ライアットはそのまま大地に倒れ込んだ。

 ゼフィラは倒れたライアットに慌てて駆け寄る。


「ライアット! 血が……」


 もうライアットの心臓が殆ど機能していないのは見て分かった。

 心臓が脈打つたびに、ライアットの胸の傷から血が大量に流れ出る。


「死なないで! 死なないでよライアット!!」


 ゼフィラは泣き叫びながら、その身体を強く抱きかかえる。


 彼女の涙がライアットの頬に落ち、キューピットの純粋な愛の力が彼の身体に強く作用した。

 その時、ライアットの身体を覆っていたヴァニタスの黒い支配がまるで霧のように完全に消え失せたのだ。


 ライアットが死にかけていることで、ヴァニタスの依り代としての機能が失われたのが要因だろう。


 もう、ライアットの表情に憎悪も嫉妬もなかった。

 ヴァニタスの支配から完全に解放された彼の顔は穏やかで、清々しいものだった。


「……やっと……このクソみてぇな世界から、解放される……」


 ライアットは、かつて見せたことのない穏やかな笑みを浮かべた。

 そして血まみれの手でゼフィラの顔に触れ、涙を力なくぬぐった。


「お前がいただけで……この世界も、そんなに悪くなかったって……思えたぜ……」

「ライアット……っ」

「最期に……頼みがある……」

「なんだよ? なんでも言ってくれ!」


 もうこれが最期のライアットからの命令……――――要望になるだろう。

 ゼフィラは息をのんでライアットの言葉を待った。


「俺のこと……『兄貴』って……呼んで……みてくれ…………」


 そう言われてゼフィラは戸惑った。


 ライアットのことをずっと兄のような存在だと思ってた。

 家族だと思ってた。

 しかし一回も『兄貴』と呼んだことはなかった。

 ライアットがそれを嫌がっていたから。


「兄貴……」


 顔に伸びたそのライアットの手をゼフィラは握り返そうと手を伸ばした。

 けれど、ライアットの手の力が抜けてガクリと崩れ落ちる。


「ありが……と……な…………――――」


 ライアットの頬にゼフィラの温かい血が混じった涙が落ちる。

 そしてライアットの瞳から光が消え、その息が完全に途絶えた。


 彼の身体は冷たい瓦礫の上で永遠の静寂に包まれた。


「ライアット……? ライアット!! おい!! 死ぬなよっ!」


 何度も何度もゼフィラはライアットの血まみれの身体を揺すったり叩いたりする。


 手におびただしい血の感触がした。

 初めは暖かかったその血の感触が徐々に冷たいものに変わっていく。


 認められないゼフィラは心の底からライアットを呼んだ。


「返事しろよ! 兄貴!!!」


 それでも……ライアットはもう二度と目を開くことはなかった。


「うわぁあああああああああっ!!」


 ゼフィラの慟哭が終わった戦場に響き渡った。



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