第3話



佳珠かじゅどの」



 丁寧に活け替える花を揃えて置いていた陸議りくぎは振り返った。

 一人の女性がそこに立っている。


 確か……。


張春華ちょうしゅんかですわ。覚えておられます?」

「はい」

「まあ美しい秋の花。花活けをされるの?」

 張春華が側にやって来る。

「はい。これから曹娟そうけん殿がなさいます」

「あなたはなさらない?」

 張春華は美しい竜胆の花を手に取った。


「そう。まあ仲達ちゅうたつ殿は花には無関心であられるから、困りはしませんわね。

 涼州りょうしゅう遠征の話は貴方も聞きました?」


「はい。お話がありました」


 自分で聞いたのだが、些細な返しに心が苛立つ。

 自分が涼州遠征のことを聞いた時、司馬懿しばいは女の貴様がそんなことに興味を持つなと言って嫌がったのに、この女にはちゃんと自らの口から話すのかと思ったのだ。

 本当に、陸佳珠りくかじゅと司馬懿が話しているところを一度見てみなければ。

 幼い頃から知ってる自分には、司馬懿は高圧的な態度しか見せたことがない。

 あとはひたすらお前には興味がない、という姿勢だ。


 一体この大人しげな女にはどんな声で話しかけるのだと思う。

 それに軍と政にしか興味のない司馬懿と二人きりの部屋で、一体何を話しているのか?


 全く謎だった。


 確かに佳珠かじゅは美しい娘だが、そもそも司馬懿が女の見目の良さにさして興味がない。

 甄宓しんふつの美しさは理解出来ているようだし、気に食わない見合い相手の容姿を非難して泣かせたりもしているため、美しい女の容姿、というものが全く分からないわけではないのだろうが、女を選ぶ時の判断に、それが全然なっていない。

 

 甄宓は見た目だけではなく、髙い教養があり、楽の才もあり、笛の名手だ。


 陸佳珠りくかじゅはそういう気配もしない。

 どちらかというと無口で、美しいが華やかでは全くない。

 司馬懿しばいは女の愛嬌を嫌っているので、結局こんな無口で暗い女の方が側に置くのに都合がいいのだろうという解釈になるが、釈然としない。


 司馬懿は女の知恵を嫌ったとしても人間の聡明さは愛するはずだった。


仲達ちゅうたつ殿がお留守の間お一人で寂しいでしょう? 司馬家は厳格な家柄で、結婚もしてない女に敷居を跨がせない家ですもの。

 よろしければちょう家にいらっしゃらない?

 不自由はさせませんわ。美しい庭に面した良い離れがありますの。

 使ってくださいな。

 司馬懿殿はこういうことには無頓着で女任せになりますの。

 ですから私たち、女同士で仲良く手を取り合わなければ」


「ありがとうございます。司馬懿殿がそうするようにと命じられるならば、そのようにいたします」


「命じられますわ。遠征は数ヶ月にも及びますし、あなたは許都きょとにいらっしゃったばかり。不慣れです。貴方に何かあれば心配なさいますわ」


佳珠かじゅどの」


 曹娟そうけんがやってくる。


「奥方様の衣装が届いています。あちらの部屋に……春華殿、おはようございます」

「おはようございます、曹娟殿。曹丕そうひ殿下が明日戻られると聞いて、なにかこちらが忙しいようならお手伝いに参りましたけれど、杞憂でしたわね」


「奥方様が四阿しあにいらっしゃいます。

 今は寛いでいらっしゃるので、お話しになられてはいかがでしょう」


「まあ。でも……突然押し掛けるのも憚られますわ」


「話し相手にあとで佳珠殿を呼んでほしいとおっしゃられたので、心配ないでしょう」

「それなら喜んで伺います」

 張春華ちょうしゅんかは軽い足取りで庭の方へ歩いて行った。


 陸議りくぎは一礼して見送り、活けるための水場を整える。


「……春華殿は貴方に興味がとてもおありの様子ですね」


 春華が絡んでいると見て、それとなく曹娟そうけんが戻って来てくれたのだろうと気づき小さく陸議は笑った。


「はい……。ですがあの方が気になさるようなことは何もありませんから。今は目に付かれることもあるでしょうが、そのうち私の存在などどうでもよくなるでしょう」


 陸議は膝をつき、少し汚れた床を布で拭いた。

 曹娟はそれを見ている。

 不思議だが、この人は恐らく以前はそれなりの軍職についていたはずだが、意外なほどこういった細かい仕事をする手が慣れていた。

 衣装を畳んだりするのも、ただ女の装飾品の扱い方を知らないだけで、教えれば何でもすぐに覚えた。衣を扱う手も、手慣れている。

 

 普通身分の髙い将官であれば、こういうことは身の回りに任せるものだ。


 今も陸議は床の汚れに気付くと普通に自分で掃除をした。

 部屋を整えたり、掃除をしたり、全く抵抗や戸惑いがないようなのだ。


 一体以前はどういう生活をしていたのだろう?

 こういうことを、自分でやっていたのだろうか?


「そうとも限らないでしょう。

 貴方の存在は春華殿にとって、司馬懿しばい殿の扱いから起因するところがあります。

 あの方にとって貴方がどうでもいい存在になるのは、司馬懿殿が貴方をどうでもいい存在として扱われた時だけです」


 陸議りくぎは立ち上がった。


 美しい庭だ。

 最近曹娟は、甄宓しんふつの為に整えているこの庭に、陸議を立ち入らせてくれるようになった。

 雑草や枯れている葉は取っていいと言われたので、ここへ呼ばれるとそうしている。

 

 その作業をしていると、なんだか無心になれた。

 夜の暗い残照を封じ込められるから気が紛れるのだ。


「私も以前の嫁ぎ先では、夫と義母がまず私を軽んじましたから。………司馬懿殿は私の元夫や義母ほど愚かではないと思います。

 軽んじるくらいなら、最初から貴方をお側に置いたりはしないでしょう」


 司馬懿が陸議を護衛にとして見ているのか、補佐官として使いたいのか、間諜として使いたいのか、それとも別の目論見があるのか、それはまだ分からないと甄宓は言っていた。


『けれど、根拠のない私の勘だけど……私のことを子桓しかん様が遠ざけられていた頃、あの頃は本当に、私への愛情などはお持ちではなかったと今でも思うわ。

 女の愛情も、私の愛情も全く信じておられず、曹操そうそうの方にそのうちなびくとお思いだったのやもしれません。

 そうなれば私は曹孟徳そうもうとくの間諜ですわ。

 煩わしく思われたのでしょう。

 でも側にいることを許された今は、愛していただいていることを強く感じられます。

 殿方は、愛せない女を側には決して置かないわ。

 だから仲達ちゅうたつ殿の、陸議様へのお気持ちは目に見えるよりずっと強いと私は見ます。

 ……陸議様を私達の手許に置いておけば、いざという時には仲達殿を牽制出来るやも』


 そういうことを見極めたいと言って、最近日中はほぼ陸議は佳珠の姿でこの甄宓しんふつの居城の方にいた。いずれ遠征の準備が始まれば、陸議として司馬懿の側に戻る。

 本当にまるで間諜のような生活だった。


 だがその難解な生活を陸議は嫌がることも戸惑うこともなく、淡々とこなしている。



曹娟そうけん殿……あちらにいる女性はここによくいらっしゃる方ですか?」


 

 竜胆を選んでいた曹娟が振り返る。


「どれです?」

「あちらの回廊に……ここへ来た数時間前もそういえば見かけました」


 この居住区は下階で立ち入りを禁じられている。

 張春華ちょうしゅんかは衛兵が顔を覚えたので、ここまでは入って来れる。ここの侍女や女官は別の場所から出入りをするから、下階の回廊はここに入れない人間が行き交う場所だ。


「私は気付きませんでした。申し訳ありません。ありがとうございます佳珠かじゅ殿」

「いえ……」

「奥方様は素晴らしい方ですが、曹丕そうひ殿下のお命を狙うような不届きな者が、時折ここに潜り込もうと訪問してくることがあります」


 陸議は下の回廊を見下ろした。

 薄い、紫色の長裙ちょうくんを着た女がそこにいて時々少し歩き、少し立ち止まり、こちらの居城を時々見上げてくる。

 陸議りくぎと目が合うと、ハッとしたように身を翻した。


「間者でしょうか?」


「……あれではすぐに見破られる。違うでしょう」


 すぐにそう言った陸議を、曹娟が見遣った。

「けれど、何かここに来た意図があるようです。

 ……曹娟そうけん殿、お許しがいただけるのなら、私が様子を見て来てもよろしいでしょうか?」

 数秒考え、曹娟は頷いた。

「お任せいたします」

「ありがとうございます」

 陸議は少しだけ微笑むと一礼し、その場を離れた。 


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