第4話


 自分の部屋の敷地にある庭の四阿しあで、大きな布に描かれた涼州りょうしゅうの地図を覗き込んでいた賈詡かくは煮詰まり、わしわしと癖毛の髪を掻いて、机に両脚を上げ、椅子の背もたれに深く背を預けて伸びをする。

「ん?」

 なんとなく見遣った所に姿があった。


「うわ。びっくりした。やめてよ突然いるの。いつからそこにいた?」


 振り返った郭嘉かくかが微笑む。

「いま来たところ。おはよう。あんな色の鯉、前からいた?」

「あの黄色いやつだろ。いたよ。隠れるのが好きなんだ」

「いいね、鯉って。見てて飽きないな。私の部屋にも鯉の池を作ってほしいなあ」

「あんたが『作ってほしいなあ』って言えば三日で出来るだろうよ」

「誰に言えばいい?」

「いいよ。俺が言っとくよ誰かは俺も分からんが、こんなことあんたが言ってたよーって言うだけで噂になって担当部署には伝わるさ」

「ありがとう」


 郭嘉はのんびりとした足取りでやって来た。

 いつものように、豪奢というわけではないが品のよい身なりに少しだけ飾った姿で。

 そういえば早朝見かけた時と着物が違う。


「お散歩かい? 先生はいつも優雅でいいねえ」

公達こうたつ殿から恋文だよ」


 懐から文を出し、賈詡に渡した。


「数日後曹丕そうひ殿下が帰還なさるそうだ」


「涼州遠征とは別に、荊州けいしゅう方面に偵察部隊を送って欲しいか。

 仕事がまた増えたなあ。

 呉蜀の詳細が知りたいなら成都せいとに間諜を送り込んだ方が楽だ。

 また農民に金でもやって潜り込ませるかね」


公達こうたつ殿はそんな回りくどいことは言わないよ。

 知りたいのは江陵こうりょうの様子だろう」


「江陵?」


「うん。赤壁せきへき直後に妙な戦いがあっただろう?」


「ああ……例の【鳳雛ほうすう】が死んだ戦いか? なんだっけ? あの山……」


「【剄門山けいもんさん】。呉蜀同盟が決裂したことによって、二国の前線が押し上げられた以上、突発的な戦闘が発生しても別におかしくはないけど。確かにあれは少し妙な戦いだった。山岳戦だからね」


「それはしょくが……に対してもうすこし守りの要所を作りたかったんだろう。

 そんなに妙か? 【白帝城はくていじょう】は建ってるとこ自体はそんな防御の髙い城じゃないからな」


 郭嘉かくかは四阿の椅子ではなく、椅子の上に四阿の窓辺に腰を下ろした。

 足を椅子に下ろす。

 涼州の地図を眺めている。


「それなら白帝城から増援を出して呉の妨害を防いで要所作りに専念するはずだよ。

 報告では白帝城からあの山に派兵は一切されなかったという。

 そこへ当然呉軍が警戒を強め来襲し、打ち払われて【鳳雛】を失ってる。

 彼が一体何の犠牲だったのかが分からない。妙だ」


「【鳳雛】は赤壁せきへきまで呉にいたらしいな」


 郭嘉は小さく頷く。


「呉軍は火葬にした【鳳雛ほうすう】の遺骨を呉に持ち帰ったそうだ。

 そして成都せいとには劉備りゅうびに嫁いだ孫権そんけんの妹がまだいる。

 虜囚のような暮らしではなく、時折民の前にも二人で姿を現すそうだ。

 呉蜀同盟は本当に決裂しているのか?」


荀攸じゅんゆうのやつ。それが知りたいならそうと書けよな」


公達こうたつ殿は書いてる。私が隠した」


 郭嘉かくかが懐からもう一枚布を差し出して来た。

 賈詡は半眼になり、乱暴にその一枚を奪い取る。


「俺で遊ぶんじゃないよ」


 郭嘉は少年のようにケラケラと笑った。


「特にその【剄門山けいもんさん】の詳細が知りたいなあ。

 今どうなっているのかも」

「燃えたって聞いたぜ」


「うん。そう聞いたけど。一応何か残ってるかもしれないし。

【鳳雛】があの山で何をしてたのか、私も知りたい」


白帝城はくていじょうには当時|趙子龍ちょうしちゅうがいたんだろ? あいつは速い。呉軍が襲来しても急げば援軍に間に合ったはずだ。間に合えば山に入った呉軍を挟撃出来た。

 しょくが【鳳雛】を見殺しにしたと思うか?」


「彼が呉にいたのが事実なら、呉の間者だったか間者と疑われたか……まあ可能性はある」


「しかし鳳雛先生の噂は蜀じゃ聞くけどじゃ全く聞かなかったな。

 赤壁にもあいつはいなかったんだろ?」


「誰も姿を見てないからね」


「なんつーか……ちょっと不思議な奴だよな。

 有名な司馬徽しばき門下の天才だった割には、呉に行くまではどこへも仕官してなかったみたいだしな。【臥龍がりゅう】の方もそれまで噂しか聞かなかったが、劉備りゅうびの流浪時代に士官してる。

 独特だよな」


徐庶じょしょも司馬徽門下生だ」


 賈詡かくは怪訝な顔をする。


「徐庶も? そうなのか? 初耳だ。誰もあいつの詳細知らねえんだよ。あんたどっからそんな情報……愚問だったな」


 にこにこしている郭嘉かくかに賈詡は凝ってきた首をほぐしながら、溜息をついた。


「ちょっと待て。徐庶じょしょも独特な奴だったらどーすんだよ。

 司馬懿しばい殿の副官も独特だったし司馬懿殿もなんなら独特だし独特な奴いすぎだろ。独特な奴が集まると独特の軍になるじゃねーか。

 俺は独特の軍率いるの苦手なんだよ。

 王道で勤勉なヤツがいい。

 よし! 決まったやっぱり張遼ちょうりょう将軍にお出まし願うわ。

 そんで長安ちょうあんに知らせ送って張郃ちょうこうもすぐ呼ぼう。

 悪いな楽進がくしん

 今回は俺の首が掛かってる。お前の成長をほのぼの見守ってる暇は俺にはない。

 俺は今回徐庶と司馬懿殿に集中させてもらう」


 郭嘉が声を出して笑っている。


「勿論最終的に布陣を決めるのは君だけど。

 進軍予定を詰めたらもう一度検討してあげてよ。賈詡。

 君は徐庶と司馬懿殿に集中すればいい。

 今回は楽進と李典りてんの面倒は私が見てあげるから」


 賈詡がほう、という顔で郭嘉の方を仰ぎ見る。


「おや。気が変わったのかと。あんたも来てくれんの?」


「ううん。ゆっくり考えてみただけ。……戦場になる前の涼州りょうしゅうをやはり少し見ておきたい」


「そりゃこっちは天才軍師郭嘉かくか大先生に出陣いただけたら大助かりだよ?

 あんたがいりゃやれること格段に増えるしな」


「うん。よく言われる」


「しかし……いいのかい?」

「なにが?」

「なにがって第一に体調。病み上がりで過酷な涼州遠征なんて心配だなって」

「うーん。まあやってみないと分からないし、現時点で元気なんだからこういう時に行っておかないと。そんなこと言ってたらずっと私は許都きょと長安ちょうあんの行き来だよ? そんな眠くなる生活嫌だな」

「まあそれはそうね。んじゃ最近はホント体調平気なわけだね?」

「うん。とても体調はいい」

「そりゃ何より」

「第二は?」

「第二は……」


 賈詡は机の上に乗せていた足を組み替えて笑った。


「先生が折角許都に戻られて間もないよ? ここで遠征に連れてったらオレ女の子達に随分恨まれちゃうんじゃないかなあ。今朝の子だって随分泣いちゃってたじゃない」

 郭嘉は目を瞬かせてから、片足を折り曲げて頬杖をついた。


「君は神出鬼没だなあ」


「いんや。あんな誰でも見れるとこで逢い引きしてるの目撃したのを『神出鬼没』とか言われると俺がむしろ恥ずかしくて赤くなる思いだからやめて。それにしても先生が女と揉めるなんて非常に珍しいねえ」


「別に揉めてないよ」

 郭嘉はおかしそうに笑っている。


「まあそうね。すぐ仲良さそうに部屋に入って行ったしね。

 さぞやあれからお楽しみだったんでしょうから揉めてはないわな。

 遠目からだけど美しいお嬢さんだった。あんな風にあんたに抱き締めて欲しい! って思ってる子許昌の城だけでどんだけいるのかね? 招集かけたら許都の駐留部隊よりも大軍が集まるんじゃないのかな?」


「集まるかもねえ」


「あんたの場合、そんな感じでもちっとも腹も立たんね。

 許都中の美女を泣かせるのはちょっとなー。」



「……だけどそれは我慢してもらうしかないよ。

 私は軍師だ。軍師は戦場で指揮を執るのが仕事だ。

 安全なところで軍略をダラダラ語ってるのは軍師じゃない。」



 一瞬、顔を逸らすように郭嘉は庭の池の方を見た。

ふと、賈詡がそちらの方へ目をむける。

数秒すると郭嘉がもう一度こちらを向き、笑った。


「まあ私を愛してるなら我慢してもらうよ。

 それにいくら愛し合っていたって四六時中一緒にいるなんて芸がない。

 たまには離れ離れになってみた方が再会が楽しみになれるだろう」


「言うねえ。

 んじゃ本当にあんた俺の副官として連れてっていいんだな?」


 郭嘉は座っていた体勢を崩し、立ち上がって四阿しあの中ではなく外の庭の方に身軽に舞い降りる。

 遅れて賈詡も立ち上がり、四阿の外に出て行った。

 出て行った郭嘉かくかが池に掛けられた橋の上に佇んでいる。


「いいよ。久し振りに私も戦場の空気を味わいたいからね」


 ゆっくりと歩き出す。

 薄青の着物の袖が風に柔らかく揺れた。




「――――郭嘉」




 賈詡かくが呼び止める。


「一言だけ言っておくぞ。

 お前の才には敬意を払うが、副官で連れて行く以上は俺に逆らうなよ。

 ……つまりな、お前は以前戦場でぶっ倒れた時、

 重病を俺達や曹操そうそう殿にさえ直前まで隠してた。

 ああいうことは二度とやめろ。

 お前はの未来なんだ。自分を大切にしろ。

 戦場に立つのが軍師だなんて下らんことを言ってないで、

 生き残ることをもっとよく考えろ。

 そういうところはお前は俺や荀彧じゅんいくからもっと学べ。

 俺になんかそんな隠し事をもう一回しやがったら即、樽に詰め込んで、

 お前を長安ちょうあんに送り返してやるからな。

 覚悟しとけ。言っとくが、荀彧の本気の説教は本当に堪えるぞ」


 郭嘉が振り返ると、揺れた髪の合間から鶸色ひわいろの瞳が覗き、陽を吸い込んで輝いた。


「遠征から無事に帰還したら、あの黄色い鯉を私に譲ってよ。賈詡。

 珍しいからきっと彼女達が喜ぶ」


 はぐらかされ賈詡は溜息をつき、首の後ろあたりをほぐす仕草をした。



「欲しけりゃ遠征が終わったあとに自分で取りに来な。坊や」



 やったねと少年のような顔で笑うと、郭嘉は優雅に去って行った。







 ――――あいつのあの笑顔は信用出来ない。

 


 五年前、郭嘉が病で倒れたのは戦場だった。

白狼山はくろうざん】の戦いでえん家を打ち破ったあと、すぐに軍を西に向かわせた時で、大部分は洛陽らくよう長安ちょうあんに帰還したが、新しい軍と共に西涼まで前線を押し上げようとしていたのだ。

 あの時も賈詡は西涼せいりょう出身の戦術家として、曹操に伴われて西へ向かっていた。

 郭嘉かくかの才能は【白狼山】の戦いで魏軍全体の知るところとなり、当時郭嘉は弱冠二十歳の青年で、賈詡もその時初めて会った。

 古くからの知り合いらしいので荀彧じゅんいくにどんな奴だと聞くと、


『目を輝かせて軍略を話すひとですよ』


 と笑って答えられて、はぐらかされたもんだと思ったものだが、実際会ってみるとまさに荀彧の表現が的確だった。

 目を輝かせて快活な口調で軍策を述べる。

 そこに佇んでいるのに目だけは楽しそうに戦場の色んな場所を常に見回していて、

 本当に子供みたいな奴だと思ったのをよく覚えている。


 ……郭嘉は倒れる直前まで、そういう顔をしていた。


 賈詡が一瞬視線を外し、もう一度見た時は乗っていた馬からよろめき、落ちる瞬間だった。

 落馬した時すでに気を失っていて、溢れるほどの血を吐いていた。

 数秒前まで微笑んでいたのに。


 郭嘉はそこにいるだけで何か太陽がそこにあるような気配で、その輝く才能が魏軍全体を鼓舞し、照らすようだったから、地に倒れた姿は曹操そうそうにも魏軍にも凄まじい衝撃を与え、無論のこと涼州りょうしゅう遠征どころの話ではなくなり全軍が長安ちょうあんに引き返して帰還した。


 死にかける三秒前まであの男は普通に話し、普通に笑っていられるのだ。


 

(まったく、タチが悪い)



 あいつのことであんなに驚くのは二度とごめんだ、と賈詡かくは太陽を見上げた。



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