第17話「消えない風景」
あの町を出て、ずいぶん時が経った。
左入町。もう地図にも記憶にも薄れかけているはずの土地。
けれど、ある夜ふと、夢の中であの薄暗いLOOPの廊下を歩いている自分に気づいた。
誰もいないのに、足音だけが二つ。
町田での暮らしは少しずつ整い、生活も日常の顔を取り戻してきた。
けれど、何かが“戻りきっていない”感じがする。
たとえば、道端の落ち葉に一瞬ギョッとしたり、
エレベーターの鏡に映った後ろの自分が、どこか“別の誰か”に見えたり。
それらは、左入で受け取ってしまった“異物”がまだ体内に残っている証かもしれない。
ある日、町田の駅前を歩いていたとき、風が妙に湿っていた。
湿り気とともに、ほんのかすかに鉄のにおいがした。
反射的に頭に浮かんだのは、LOOP裏の非常階段で感じたあのにおいだった。
それは「終わっていない」ことを告げる合図だった。
夢と現実が時折つながってしまうのは、私の中の時間軸が“向こう”に未練を残しているからかもしれない。
誰かが助けを求めている。
声にならない声。風景に溶けてしまった存在たち。
もう会うことはないと思っていたのに、名前も知らない隣の女性の泣き声が、風に乗って聞こえる気がする夜がある。
だけど、逃げるのはやめた。
あの場所で見た“生”も“死”も、“狂気”も“現実”だった。
私の一部であり、もう消すことはできない風景。
ならば、この胸のなかにひとつの“記録”として刻んでおこう。
フィクションのような現実と、現実のような幻想の狭間で。
町田の夜は、静かだ。
だけど、静かすぎない。
この「静かすぎない」感じが、左入にはなかった。
ここでは誰かが確かに生きている。
道を歩けば犬の鳴き声や人の笑い声がちゃんと返ってくる。
透明にならずにすむ町。
だから私はここで、もう一度始められると思った。
左入町での出来事は、風景としては消えない。
けれど、それは記憶の檻ではなく、物語の一章になっている。
閉じられた本ではなく、背表紙が少し擦れたノートのように。
次のページには、少しだけ光が差していた。
つづく
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