第21話 しづ心なく 花ぞ散るらむ⑦ 4月21日
「せん、ぱい……?」
今までで一番近い距離。
密着したまま、先輩の瞳は私を映し続けていた。
その真剣さに言葉を忘れて見つめ返す。
仄かに汗ばんだ前髪は額に張り付いていて、それが酷く艶めかしい。
雪のような頬に、ほんのりと紅みが差す。理知的な印象の涼しさを湛える顔が、いつになく熱を帯びて。
時が制止したように。世界に二人だけが取り残されたように。
微かな呼吸に合わせて動く先輩の身体と、トクトクと伝わる速い鼓動だけが動いている。まるで精巧な人形のような先輩も確かに生きているのだと、当たり前が色濃く心に焼き付けられる。
彷徨っていた左手を先輩の背に回そうとしたところで我に返った。
この先は進んではいけないという直感。
「せん、ぱい」
絞り出すように呼べば、びくりと先輩の身体が跳ねた。
「っ……ごめん」
「いえ、大丈夫、です……」
重なっていた身体がゆっくりと離れ、熱と、湿度と、高鳴りが名残惜しそうに引いていく。
もうすこし、このままでいても良かったなんて。
一過性の熱情に絆されて、どうにかなってしまいそうで。
気まずさを埋めるように、二人してせかせかと着替えに勤しんだ。ワイシャツの袖に腕を通しながら、まだ落ち着かない自分がいる。
さっき伝わった先輩の速い鼓動。身体が離れて、私も同じリズムを刻んでいることに気付く。
先輩は本当に理解不能な生き物だ。
どうして私を抱きしめたまま放さなかったんだろう。もしあのまま私が手を回していたら、先輩はその後どうしたんだろう。
そして私は、どうしていたんだろう。
どれも皆目見当が付かなくて、でもどの可能性を考えても身体がかあっと熱くなる。
「先輩」
「なに?」
熱に浮かされて、今まで好奇心を堰き止めていた自制心が弱まっている。
まだ踏みとどまることも出来る。でも今なら全部、この気の迷いもあなたのせいだと言い訳が出来る気がして。
陸上部の練習だろうか、ホイッスルの高い音が告げるスタートの合図。
背を押されるように私も踏み出した。
「先輩は、どうしてずっと一人だったんですか」
今日も、昨日も、一昨日も、出会ってからずっと。こんなに他人との関りを求めている人が、どうして。
背中合わせの顔色は窺えない。それでも空気が張り詰めていくのがわかった。
「――どうしたの、急に」
何かと急なのはお互い様だろう。けれどあまりに硬質で、つまらなそうな声色に面食らってしまう。
「なんとなく、きになって……」
「別に……後輩がこの間言った通りかな。私は人付き合いが苦手なだけだよ」
吐き捨てるような物言い。逃げ去ろうとしているのは明白だった。
そんなの嘘だ。今ならわかる。いつもの私なら慮って、早々に切り上げることだろう。他人が扉を掛けたがる心情をこじ開けようとするほど、熱意も無ければ不躾でもないつもりだ。
でも、今だけは。先輩の本音が少しでも聞けるなら、私の心に漂うもどかしさが晴れる気がして。
「じゃぁ、何で私を……」
「それを聞いて、どうするの」
何で私を誘ったんですか。
振り向きざまにぶつけようとした疑問を、最後まで言い終える前に遮られる。
丁度着替え終えた先輩が、ゆっくりとこちらに向き直る。
解いた髪がふわりと舞い、日に透かされて鈍く輝く。
「君は、どうしたいの?」
機械的な微笑を貼り付けて、諭すように繰り返す。
答えは出ない。
私だけがさっきまでの熱の残滓を纏っていて、先輩はすっかり冷めきっていた。
「詮索されるのは、好きじゃないな」
静謐な拒絶を浴びて、目には見えない境界線がはっきりと引かれて。
沈黙が降り立つ六畳半は寒々しい。さっきまでの時間が幻のようだった。
「……すみません」
何をきっかけに距離が縮まるのか、遠のいていくのかさっぱりわからない。
やっぱりこの人は、理解不能だ。
その後、会話らしい会話はないままに校門で別れた。
来週の月曜日、先輩と二人きりで過ごすのはそれが最後。
数日までは実感と感慨の湧かなかったその日がいよいよ目前となり、ようやく芽生えたのは嬉しさでも寂しさでもなく不安だった。
週明けに私はどんな顔で先輩と会えばよいのか。
解決策を編み出すことも出来ないまま、斜陽を背にバスを待つ。
目の前の道路をトラックが走り去っていく。
吐き出された黒い排気ガスさながら、先輩の問いかけが心の中でもやもやと蔓延していた。
『それを聞いて、どうするの』
答えることの出来なかった問い。
先輩が一人で過ごしてきた理由を聞くことの意味。
深い意味はなく、ただ気になっただけ。そう済ませてしまえば簡単だけど、何か引っかかるものがあって中々靄が晴れない。
軽率な質問だった。
先輩が望まずして孤独なら、いじめとか、仲違いとか。基本的には後ろ暗い理由があることくらい、少し考えれば分かることなのに。
それを理解しながらも聞いてしまった私は、何を得ようとしたんだろう。
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