第20話 しづ心なく 花ぞ散るらむ⑥ 4月21日

 部室に戻り、先輩から貰った制汗シートで汗を拭く。

 部活でこんなにちゃんと動くとは思っていなくて、持ち合わせていなかったので頂戴した。特有の鼻から抜けるような匂いが控えめな、使いやすいシート。

 

体操着の下に手を潜らせて、脇やお腹を慎重に拭いていく。ひんやりと冷たくて、べったりと身体に貼り付けるには勇気がいる。

 そもそも汗を掻く想定のない部活って……などと今更に呆れながらだらだらと手を動かしていく。


「ひゃっ……ぎ!」

 

 突然の奇声を漏らしたのは私。自分でも一瞬何が何だか分からなかった。

 凄まじい痛みが身体中を駆け抜ける。

 息が止まり、両脇をぎゅっと締めて身体が縮こまる。防衛反応。

 

 瞬きも忘れて固まって。数秒経って、自分を襲っているのが痛みではなくて冷気であることを脳が理解した。遅れて、ほんのりとミントの香りを認識する。

 後ろからうなじに制汗シートが押し当てられていた。犯人は当然、たった一人に絞られる。


 「な……にするんですか!」

 飛び退くようにして振り向けば、シートを片手にした先輩が困惑したように突っ立っている。いやその反応はおかしい。


「ごめん。なんか、つい」

「なんかついでやることじゃないでしょう」

 ありがちな悪戯。突然のそれに交感神経が昂る。

 仕掛け人の方は何故かたじろぎっぱなしで、その奇怪さに気勢は削がれつつもあるけれど。

「......」

 取り敢えず、睨め付けてみる。


「その、怒ってる?」

「……どちらかといえば」

 まぁ、嬉しくはない。

 実際の所、怒りより戸惑いの方が大きい。軽率な悪戯と普段の先輩はあまり結びつかない。 そんなタイプでもないだろうに。


「私のこと、嫌いになる?」

 ……め、面倒くさいぞこの人。

 悄然とした姿は叱られた子どものようだ。あながち間違いでもないけれど。


「いや、これくらいじゃ嫌いにはならないですけど……」

 妹がもっと小さい時、こんな感じだったっけ。

 姉としての側面をくすぐられると何だか甘やかしてしまう。

 ぱっと先輩の顔があがる。さっきまでの雰囲気は消え失せて、あっという間に目に光が戻っていた。


「ありがとう。こういうの、一度やってみたくて」

 何気なく溢した言葉からは、ずっと一人で過ごしてきた先輩の本音が垣間見えた気がした。

「もう、これっきりにしてくださいね」


 やっぱり、人付き合いが苦手なだけなのかな。

 着替えに取り掛かろうとする背中を見つめる。豊かな髪は後ろで一つ結び。うなじが露出している。

 

 先日からの突拍子もないコミュニケーションの数々。そこから安直に導き出される推察。

 もしもこの人が学生同士の軽口とか、値のない触れ合いを求めているのだとしたら。

 鞄を漁る。常備している消毒用のアルコールティッシュを一枚取り出した。

 悟られないよう、忍び足で華奢な背中に迫る。

 ティッシュを押し当てるべく、先輩のうなじを目掛けて右手を勢いよく伸ばした。


「えっ……」


 ……筈だった。

 届く寸前、先輩が突如華麗なターンをみせる。躱されて空を切る私の右手。その手首を、先輩の左手がしなやかな動きで掴む。


「わっ」


 ぐいと、強い引力にひかれる。

 バランスを崩したところを、あっという間に先輩の胸元に仕舞われてしまった。

 私の身体を包むのと同じ、制汗シートの清涼な香り。

 そして柔らかい。でも柴田先輩の方が柔らかさの方が勝っていて、先輩の方は全体的にハリがある。何の品評だろう。


「来ると思ったよ」

「……ずるい」


 顔を上にあげて文句を垂れる私と、涼しさを湛えて見下ろす先輩と。


「後輩は負けず嫌いなの、知ってるからね」

「別に、そんなんじゃないですけど」


 子ども扱いをされたようで少しムッとする。

 むしろ私が子供っぽい先輩に応じてやったことなのに。いや、こういうところが負けず嫌いなのか?分からなくなる。

 何にせよ練習に引き続き、今日は連敗みたいだ。これ以上勝負を吹っ掛ける気にはならない。


 取りあえずは離……れない。というか、離れられない。

 右手首は変わらず絡めとられたまま。腰に回された先輩の右腕は私を強く抱きしめたまま緩まる気配がない。


「はいはい。私の負けですから。もうしませんってば」


 往生際悪く私が追撃をするとでも思ったのだろうか。疑り深い先輩の為に白旗を宣言。

 それでも、腕の輪はきつく締められたままで。


「せんぱ……」


 文句を言おうとして、息を呑む。

 今までで一番近い距離。

 密着したまま、先輩の瞳は私を映し続けていた。

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