第25話 慰め

 美しい人が涙を流すのはどんな姿でも美しいことへの証明だ、と私は思った。エイミーさんが私の話を聞いて、言葉より先に涙を流した。

「あの…大丈夫です。私は記憶がなくて。その当時のこと、何も覚えてないんです」

 エイミーさんは何度も小さく頷いた。

「だから…誰とも付き合う気もないですし…」

 すると突然、エイミーさんに抱きしめられた。柔らかくて暖かくて良い匂いがする。何だかこうしてもらっていて良いのか分からなくて、胸がざわざわする。私が男性だったら確実に自制できなくなる。

 でもエイミーさんは私を抱きしめながらずっと泣き続けていた。

 雨がずっと降り続けている。私は視線を窓の外に移して、今の状況から意識を逸らす。

 その日、私はエイミーさんが借りているウィークリーマンションに連れて行かれた。


 エイミーさんはシンガポールで働いているらしく、仕事のついでに休暇も取って日本に帰国したと言っていた。叔母さんにも上手く話してくれて、私は初めて外泊をした。

「空ちゃん。ご飯食べに行こう」

 そう言って、エイミーさんはとんかつを食べたいと言う。私の希望を聞いてくれなくてほっとした。外食に詳しくないし、特に食べたいものもなかった。

「日本に帰って来たらここのとんかつが食べたくて仕方なかったの」

 嬉しそうに笑う笑顔がすごくチャーミングだ。自分の意思を素直に言えるのも羨ましい。

「とんかつ好き?」

「はい」

 特にと言うわけではないが、好きか嫌いかと言えば好きだ。

「日本は美味しいものがたくさんあるからねぇ」とエイミーさんは待ってる間も楽しそうだ。

「でもシンガポールもあると思います」

「ある! 空ちゃん、シンガポール来る?」

 突然言われて驚いた。パスポートすら持っていない。仕事を紹介するとまで言ってくれた。でも正直、私にどんなスキルがあるのかエイミーさんは知らない。私でさえ、何が向いているのかも分からない。同情なのだろう。

 そんなことを考えていると、とんかつがテーブルの上に置かれる。本当に美味しくて、エイミーさんが楽しみにしていると言う意味が分かる。その後、突然、ネイルをしようと言われて初めてネイルをしてもらう。淡い桜色に塗られた爪を見ると、特別綺麗になった気がした。

 その後、部屋に戻って、シャワーを借りて出ると、エイミーさんはうつらうつらしていた.

「先に寝てて良いからね」とエイミーさんは言ってシャワーに向かう。

 私は起きて待っていたけど、エイミーさんはパックをすると大きな欠伸をした。少しだけ大きいベッドに二人で並んで横になる。

「おやすみなさい」と声をかけると

「空ちゃんも。良い夢見てね」とすぐにベッドに横になった。

 ものの数分でエイミーさんは寝息を立てた。私はその寝息を聞くと、そっとベッドから出る。窓から夜の街を眺める。窓に添えた手が目に入ると、爪は綺麗に光っている。

 今日会った人と一緒のベッドで眠ることがあるなんて思いもしなかった。エイミーさんを泣かせてしまった。私は少し落ち込んだ。本当のことを言ったら、相手に負担をかける。でも嘘を重ねると、私が苦しくなる。

 私は彰ちゃんにわがまま言ってた頃に戻りたいと思った。目線を下げると、夜の街はいろんな人が歩いてる。仕事の後に飲んだ帰りの人たち、恋人、夜中の配達員。私は自分じゃない誰かになりたい。


 次のバイトの日に研究室に行くと、樫木先生が慌てて謝ってきた。

「ごめん。藍美が。連れ回したみたいで」

 その様子を見て、私は思わず微笑んだ。エイミーさんの代わりに謝るなんて、離婚したのにまだ夫婦みたいだから。

「楽しかったです」

「あい…いや。彼女は突っ走るところあるから」

「養子縁組しないかって言われました」

 翌朝、カフェで「誰とも結婚しないなら、私と養子縁組しない?」とエイミーさんが言い出したのだ。

「え? 養子縁組?」

「はい。魅力的ですけど…。良く考えてから決めます」 

 樫木先生は頭を抱え込んだ。文字通り抱え込んだから、私は驚いた。

「佐々木さん、ごめん」

「全然。本当に楽しかったですし、私の方こそ、なんか気を違わさせてしまったみたいで」

「あの…。それについてもごめん。君は…そのままで素敵だから」

 そういうことを気づく樫木先生に私は冗談一つも言えなかった。

「分からないんです」

 樫木先生がじっと答えを待っている。その答えを私も知りたい。

「私は不幸とか、幸福とか…どっちなのかなって」

 しばらくの沈黙の後

「佐々木さんに限ったことではないけど、両方だよ。不幸と幸福と片方なんてないから」と言った。

 先生らしい回答に私は泣きそうになる。

「たまに…不幸な気分になるんです。だから…エイミーさんに優しくされて嬉しかったです。なので気にしないでください」

 それ以上、先生は謝らなかった。優しくするエイミーさんも、謝る先生も遠くに感じた。私もそちら側に行けたら良いなと思いながら、仕事を始めた。

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