第24話 雫

 雨音は好き。濡れるのは嫌い。


 今日は一日、先生が出張会議だと言うので、私はのんびり研究室の掃除をした。いらなさそうな書類と必要そうな書類を分けて箱に入れておく。最終チェックをもらったらゴミにまとめる予定だ。

 雑巾を持ち込んでいろんなところを拭いていく。綺麗に見えても、雑巾に汚れがついた。引き出しの中は開けない。パソコンの上をゆっくり撫でていく。

 ドアがノックされて、慌ててドアまで行った。先生がアポイントメントを忘れるはずないのに、と思ってドアを開けた。

 綺麗な女性が立っていた。

「樫木さん、いらっしゃる?」

「今日は一日出張で…」

「そうなの…」

 長くウェーブの髪に雨の雫が付いていた。

「タオル…お貸しします」と言うと、ゆっくり笑った。

「助かるわ。お借りしてもいいかしら?」

 私はドアを大きく開けて、中に通した。ソファに座ってもらう。手拭きタオルは数枚ある。引き出しから取り出した。先生が持ち帰って洗っているのだろうかとふと思った。

「あなた…研究生?」

「いえ。バイトです」

 くすくす笑われたが、それが魅力的で、私はこの人が元奥さんの様な気がした。

「良ければお茶でも…」とタオルを渡しながら言う。

「ありがとう」

 お湯を沸かして、ティーパックの紅茶を用意した。女性は部屋を見渡して、懐かしそうに目を細める。

 ティーパックのお茶はすぐに色が出る。掬い上げて、流しに置いた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 タオルをそっと当てて、雨露を吸い込んでいる。私は掃除を再開するのもどうかなと思いながら、雑巾を洗う。

「いないの、知ってて来たの」

「え?」

「おせっかいな人がいてね。透真がかわいいバイトを雇ったって教えてくれたの」 や

 少し楽しそうな声で言う。

「あの…どちら様でしょうか」

「あ、ごめんなさい。でもあなたも確認する前に勝手に研究室に入れちゃだめよ」

 そう言われればそうだ、と頷く。

「樫木…藍美。エイミーって呼んで。透真の元嫁」

「エイミーさん?」

「そう。苗字は面倒くさくてそのままにしてるの。パスポートから銀行口座、保険…その他もろもろ…、なんでこんなに女だけが面倒くさい手続きしなきゃダメなのかしらね?」

「エイミーさんは私に会いに来たんですか?」

「うふふふ。まぁ、少しお顔を見ようかと」

 そう宣言されてから立ち上がって、近くに寄られて、じろじろと見られる。綺麗な人から見られると恥ずかしくなる。

「あの…」

 私は手にしている雑巾をギュッと握ると水滴が床に落ちた。

「あ」とその雑巾で床を拭いたが濡れた面積が広かっただけだった。

「ちゃんと絞らないと」とエイミーさんは雑巾を取って、洗面台で絞る。

「樫木…優しいでしょ?」と言いながら、素早く床を拭き取って雑巾を渡してくれる。

「はい」

「好きになった?」

「え? いえ。先生ですし…。それにそういうことには気をつけてらっしゃいます」

 以前、問題になったことがあったのだから、勘違いでもされたくないだろう。

「そう…。でも私…応援してる」

 何を言ってるのか分からずに私はエイミーさんを見た。

「私が幸せにしてあげられなかったから」

 私は多分口を開けて間抜けな顔をしていたと思う。

「良い人でしょ? タイプじゃない? 少し年上過ぎる?」

 畳み掛けるように言われて、私はまた雑巾を握りしめてしまった。雫が床に垂れるのを見て、もう一度、エイミーさんの顔を見た。

 綺麗な顔で微笑まれる。

「私…誰とも付き合いません」

 声が震えた。何でも手にできたであろう人に虚勢を張るように力を込めて。また雫が床に落ちた。

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