第20話 人の目
夏の間に研究室でどれだけの時間を過ごしただろう。卒業生も来たし、先生の同僚も来た。私はその度にお茶をだしたりしながら、作業を続けた。
「お菓子があるから、一緒にどうぞ」と言われて、緊張しながら、同席したりもする。
いろんな人に会うと気疲れもするけれど、楽しさもあった。私の知らない世界を話してくれる人達はいろんな景色を見せてくれる。
「佐々木さんだっけ? 折角学生なんだから、バイトばかりしてないで、おやすみもらって、旅行行きなよ。海外でなくても。国内とか」
その人は日本だけでなく、海外も旅行に行っていると言う。違う大学の院に進んだらしい。
私も行けたらいいな、と思った。いろんな場所に自由に。
「考えてみます」
そう言ったら、海外と国内のおすすめを教えてくれたから、メモをした。
「ところで就職とか考えてる?」
「公務員試験を受けようと思ってます」
育ててくれた伯母が公務員だからだ。女性でも長く勤められるのが魅力だった。でもそう言ったら、何故かその後が続かなかった。
「そっか。堅実だね」
場が収まるような台詞でその場が閉じる。
あるいは
「もし一般企業なら、紹介できるところあるから」と言われたりもした。
その度に樫木先生が
「佐々木さんなら、どこでも通用すると思います。ところで最近の…」と話しを変えてくれる。
他人の話は楽しいのに自分の話はつまらないことが多いと少し落ちこんだ。
お客さんが帰られて、私は使われたコップを洗っていた。先生はお見送りすると言って、出て行ったので、私一人きりの準備室だった。さっきまで大勢いたのに誰もいないから、蝉の音を聞きながら食器をすすいだ。
一人旅したら何か変わるだろうか、…試してみようかと言う気持ちになった。
どこに行こうかと、想像するだけでも楽しい気持ちになる。洗い物を終えて、私はさっきのメモを眺める。北海道から沖縄まで様々な地名が並んでいた。私はいろんなところにいける足も自由もある。将吾くんは足が悪かった。怪我をしていた。もし怪我が故意だったら?
そんなことを思いながら、私は窓を開けて空を見る。
熱い空気が蝉の声とともに入ってきた。
あれからたくさんの「もし」を考えるようになった。
彰吾君はそんな私になんて言うだろう。
『空ちゃんは…絶対に…』
ふと声が聞こえた気がした。
でも耳を澄ませば蝉の音しか聞こえない。私は冷房の空気が逃げて行くので、窓を閉める。
「絶対に? なあに?」
一人で呟いた。
そして、またメモに目を落とす。
どこに行けばいいかな、と思いながらも結局、決められなかった。私がのろのろと帰宅の準備をしていると、先生が慌てて戻ってきた。
「遅くなって、ごめんね。今日はもう帰っていいから」
「はい。ありがとうございます」
「早く帰って。西の空に黒い雲が広がってたから、雨が来るかもしれない」
「え? そうなんですか」と私は再び窓を見る。
真正面は青空と白い雲だが、確かに西の方は黒い雲が広がっていた。
「じゃあ…失礼します」
途端に電話が鳴ったので、先生が受話器を上げながら、私に手を振る。それで私はお辞儀をして、ドアに向かった。
「あぁ。ごめんね。…佐々木さん、あのね」
私が振り向くと今度は片手でごめんと謝っているから、立ち止まって電話が終わるのを待った。
受話器を置くと、樫木先生は「本当にごめん。急だけど…原稿の校正お願いしていい?」と言ってきた。
頼まれていた原稿を編集部に送ったものの、担当が病気で休んでいて、その担当の分が他の人が手分けしてて、樫木先生の分まで見れないと言う。
「まぁ…僕の文章なんて、小さな媒体の記事だから、良いんだろうけど。一次校正だけして欲しいって」
「でも…私、文章なんてチェックしたことなくて」
「あぁ、それはソフトでしてもらえたらいいんだけど、その他、同音異義語とか全然違う漢字に変換されてて、僕も気が付かないことがあったりするから…見てもらえないかな? オープンキャンパスの仕事もあって…。今から数時間は時給倍だすから」
先生の情けない顔を見ると、放っておけなかった。
そうして難解な文章を目で追いながら、眠気が襲うと自分で頬をつねったりしながら、チェックしていった。
「頬、ごめん」
「あ、えっと。大丈夫です」
そんなことをしているともう空が真っ黒くなっていた。ゴロゴロと雷の音がする。まだ雨は降っていないけれど、雷を伴う激しい雨になりそうだった。でもその不安のおかげで、私は眠気が消えた。ゴロゴロという音を聞きながら、文章を目で確認する。
部屋が数回、光った。
「あ、雷」
ドーンと衝撃音がした。
「どこかに落ちたな」と先生はのんびりした調子で言った。
オープンキャンパスで受験生たちに興味を持ってもらえるような授業をしなければいけないらしく、その内容に頭を使っていたので先生は雷どころではなかったようだ。
そして数分後には激しい雨が降った。
さっきまでは晴れていて、蝉もうるさかったのに、今は雨音と雷の音が激しい。眠気は冷めたものの、私は気分転換に窓まで歩いた。
激しい雨のせいか、キャンパスは誰も歩いていなかった。
「先生、コーヒー、淹れますか?」
「…うん。ありがとう」
激しい雨のカーテンで閉じられた世界は安心できる気がした。その中で飲むコーヒーも心が落ち着く。コーヒーを用意すると、また仕事に戻った。
私が三回ほど、文章をチェックして、終わった。やはりいくつか間違いがあったので、プリントアウトして、赤ペンでチェックした。
「ありがとう。お腹空いたなぁ」
「そうですね」
「ご飯食べて帰ろうか。今日はなぜだか、どうしてもインドカレーが食べたい」
「あ…。そう言えば、お客様がインドの旅行の話してましたしね」
「あ、あいつのせいかぁ」と先生は立ち上がった。
そして柔らかい笑顔で「ご馳走するので、付き合ってくれないかな?」と言われた。
意外な事だけれど、樫木先生は一人で外食するのが苦手だと言う。
「牛丼や、うどん、そば、ラーメンは行けるけど、レストランは…ちょっと」
「どうしてですか?」
「いい歳した男が一人で…って意外と気にするんです」と真面目な顔で言う。
そんなこと誰も思わないと思うけれど、と言わなかったが、どうしてもカレーを食べたいと言う先生がかわいそうになって、ご馳走してもらうことにした。伯母さんにも連絡しておく。
「じゃあ、行こうか」
麻の黒いジャケットに袖を通して、言うから、私は慌てて、お手洗いに行かせてもらった。用も足したかったけれど、今日は自分の顔をろくに見ていない。一日化粧直ししてないし、油が浮いている気がした。恐る恐る鏡を見ると、そこまで変わりがない。少しだけパウダーを叩いてリップを塗り直した。リップを塗り直しても、食事をするとどうせ取れるのだ、と思いながら、私は化粧直しをしている自分が不思議だった。
先生に気にしすぎだと思った私も人の目を気にしすぎている。
息を吐きながら、ちょっと笑った。
部屋に戻ると、先生はすっかり準備ができているようで、また慌てて、私も荷物を鞄に入れる。並んで廊下に出ると、夜が近づいていた。もう止んでいたが、さっきの雨のせいで濡れた道や木が街灯の明かりできらきら光って見えた。
夜になる手前は全ての物が綺麗に見えた。
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