第21話 ペトリコール

 雨に濡れた地面が街灯の光をキラキラ反射している。少し湿度の下がった空気は心地良かった。先生は車通勤していると言うので、駐車場に向かっていた。

「車で行きますけど、大丈夫ですか? タクシー使いますか?」

「え?」

 思わず顔を上げた。

「僕の車に乗るの…不安じゃないですか?」

「車がここにあるなら、タクシーで行ったら、先生、またここまで戻らないとだめじゃないですか?」

「まあ…そうなりますけど」

「大丈夫です。地面…」

「え?」

「地面が綺麗だなって…見てただけです」

 俯いていたから、先生は私が不安を覚えていたと勘違いしたようだった。

「雨上がりの道って綺麗じゃないですか…。匂いも嫌いじゃないし、こっそり嗅いでました」

 そう言うと、先生はほっとした様に笑った。 

「雨の匂い、ペトリコールと言うらしいです」

「ペトリコール?」

 私はすぐに忘れてしまいそうな言葉を口にした。

「アスファルトに覆われた都会の雨の匂いです」

 私が感心した後、すぐに先生は

「正体はカビとか埃らしいですけど」と少し意地悪そうな笑顔を見せた。

「わ! 正体知ったら、匂いなんて嗅げなくなってしまいます」

「そうですか? 人間もカビも大差ないですよ」

 そんなことを言うから私は驚いて先生を見た。

「地球の歴史から見ると、人間もカビみたいなもんです」

 そんな話をしていると駐車場に着いた。

「後ろの席に乗ってください。タクシーみたいで良いでしょ?」と言って後部座席のドアを開けてくれた。

 私は素直にそこに座った。

「じゃ、行きますね」

 後部座席に座るとバックミラーで目が合う。すごく気まずいから、積極的に後ろから話しかけた。

「先生。旅行はどこが一番素敵でしたか?」

「旅行ね。そうだなぁ…、日本は歴史上の場所を自分の目で確かめたいから行ったけど、それは多分、旅行とは違う感動かなぁ」

「じゃあ、関ヶ原とか行って、感動したりするんですか?」

「関ヶ原…あそこさ、山中に等身大の合戦中の人形置いてて、感動っていうよりホラーだったよ」

「そうなんですか?」

 先生の話は楽しくて、私はいろいろ聞いた。

「あのね…。僕は結婚してたんだけどね」

 私はなんて返せばいいのか分からずに、首だけ上下に動かした、と思う。多分。突然言われたから、都合の良い言葉が見つからない。

「それで新婚旅行の時に行った、バリ島とか…すごく良かった」

 それは新婚旅行だから、だろうか、と私は思ったけれど、聞き返せない。

「…湿度が高くて暑いのは日本と同じなんだけど、光が…なんていうか、綺麗で、緑が豊かで。人が穏やかなんだ。少し話しただけで、ご飯をご馳走になったりしてね」

 見たことのないジャングルをその言葉だけで想像する。

「彼女は海が好きで、僕は山や森にばかり行って、新婚旅行ですら違ってたんだから、別れるの当たり前だなって…。後になってから思ったよ」

「その時は喧嘩にならなかったんですか?」

「したした。彼女が綺麗だから、バリの男性にモテて嫉妬した」

「え? 先生が嫉妬したんですか?」

「嫉妬ぐらいしますよ。小さい人間なんで」と肩を竦める。

「そんなこと…ないです」

「そりゃ、学生さんの前では頑張って立派な人のふりをしますけどね。僕はレストランも一人で行けないし、山中の人形には驚くし、モテる彼女に嫉妬するんです」

 そう言われれば、そうだ、と私は頷いてしまって、慌てて「そんなことないです」と口にしたけれど、それはとってつけたような声になる。

「だからね。佐々木さんも気を張らずにやってくれればいいと思います。大人なんて、情けない生き物なんですから」

 樫木先生が人間がカピと同じと言ったのは私への優しさのような気がした。

「はい。ありがとうございます」

 そう言って、窓の外に視線を移す。雨上がりの街の光が滲んで揺れた。

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