第19話 世界の穴

 先生は私の話を聞いて、そしていくつか質問をした。

「男の人と同じ空間でも大丈夫?」

「今までに僕の振る舞いで嫌な事はあった?」

「遅くなる時は送ろうか?」

 私は全ての質問を否定した。

「何も覚えてないんです」

「それは…」

「脳の働きかもしれません。嫌な事…全然覚えてなくて。それより、その後、両親の態度が変わったのが辛かったです」

「…そうか」と言ったきり、先生は黙ってしまった。

 事件の前までは仲良かったと思っていた家族だった。もしかしたら本当はすでに崩壊していたのかもしれない。事件はきっかけに過ぎなかった。だとしても、私は子供で、突然、態度が変わった両親が哀しかった。

 私の事件は両親には耐えられなかったのだろう。事件の被害者の親として世間から好奇の目で見られることから二人とも逃げた。ただ伯母との暮らしは本当に静かで、哀しい気持ちも薄れていった。

「バイト…続けてもいいですか?」

 あまりにも長い沈黙に恐る恐る尋ねる。先生は顔を上げて、私を見た。

「もちろん。嫌じゃなければ」

「嫌じゃないです。…良かった」

 思わず心の声が出てしまった。

「良かったって…」

「あ…。いえ。先生も私のこと、どう扱っていいか分からなくなるのかなって」

「それは分かるとは言えないけど、とにかく働いてもらいます。まずはコーヒーを淹れてください」

 役割があることで私は少し息が軽くなる。

 コーヒー豆とミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出した。コーヒーをセットしていると、私がまとめていたプリントを先生が仕分けしていた。

「あ、すぐします」

「はい。お願い」とプリントの束を渡された。

 ふと、先生を好きになった彼女の気持ちが分かる気がした。先生はいつもフラットで、誰に対しても平等だ。だからどこか安心できた。

「先生…。あの彼女…」と言いかけて言葉を飲んだ。

 もしかしたら先生にSOSを出していたのかもしれない。何か心に傷があって…。でもそれを先生に言うのはどうかと思ったが

「口にしたら最後まで話しなさい」と先生が言う。

「…あ、あくまでも私の妄想ですけど、もしかしたら、先生に助けてもらいたかったんじゃないかなぁ…って思っただけです」

「そうかもしれませんが…、それは私の仕事ではありません」

 ごもっとも、と思って、私はまた仕分けを続けた。

「助ける相手は選びます」

 意外な答えに私は顔を上げた。

「溺れて、ただ一緒に溺れる人を助ける意味がない。溺れても前を向いている人なら助けるかもしれません。救いようがあるでしょう」

 先生の答えは一々、当然だと思った。

「ただ…後悔はあります。助けなかったことは…」

 でも私は後悔を選んで欲しいと思った。私のために二人の人が亡くなっているのだから。あの時、私が死んでいれば、二人は生きて居られて、両親も同情されこそすれ、好奇の目で見られることはなかった。私が生きている意味が分からない。

「今日はもう終わりにしましょうか」と先生が言うから、慌てて手を動かそうとする。

「すみません」

「いや、僕も正直、仕事をする気分ではなくなりました。話をしましょう」

「話…ですか」

「佐々木さんの考えていること、今の…思いや、過去について。僕に話したことで、忘れていた過去と近くなっている気がします」

「そうですね。何も覚えていないんですけど、でも私のために二人も亡くなって…それなのに私はただぼんやり生きてきて…。情けないというか。自分の価値というか、生きる意味が分からないです」

「生きる意味なんて、そうそうみんな持ってないんですよ」

 先生がそう言うから私は驚いた。

「歴史を見ると、偉業を成した人間が浮かび上がってきますけどね。テストで覚えられる範囲の人数です。後の人たちは何を成し遂げるでもなく、産まれて、生きて、死ぬんです」

 先生がそうやって話してくれた。私がごく普通の人間であるということをゆっくり解説してくれた。

「昔は日々の生活が大変ですからね。それでも日光を浴びたり、歌を歌ったり、川で泳いだり…。日々、楽しんだんだと思いますよ。僕は楽しむために生きるということが根本だと思ってます」

「楽しむ?」

「別にはじけてくださいと言うわけではないです。もちろん、はじけてくれてもかまいませんが」

「私が楽しんでいいんでしょうか?」

「いいですよ。それこそ、一般的な人間の特権だと思います」と言って、コーヒーメーカーからコーヒーを取り出してくれる。

 気が利かない、と私は慌ててマグカップを並べた。

 コーヒーを注いでくれる。

「こうして匂いを楽しむのだっていいことです。楽しいことだけじゃなくて、哀しいことだって、佐々木さんの心を動かすでしょうし、いろいろ体験したらいいんです。佐々木さんはすでに引退したような感じでしたから」

「…そう見えましたか」

 教室の隅っこにいて、誰とも話せずにいたのを気遣ってくれた。受け取ったコーヒーを両手で持つと、温かさが伝わってきた。

「いいのかな?」

「いいですよ」

 両手の温かさを感じて、私は涙が出てきた。今までだって熱さ、冷たさはもちろん感じる。ただこの温かさを受け入れていいんだと思った瞬間、涙が零れた。

「楽しんで…生きる。それが偉業を成さない一般人の特権だからね」

 目の前にティッシュが差し出された。その優しさを私は恐る恐る受け取った。柔らかくて、薄くて軽い。そして涙を拭いてくれる。

「今日はティッシュ一枚にも感動しそうです」

「それはよかった」

 結局、先生は一人残って、仕事をすることになった。私は先にお暇する。先生のおかげで、不思議と世界が変わった気がする。薄い膜があった世界に少し穴が開いた。そこを大きくするのは自分だ。

 そしてあの彼女のことを思い出した。きっと一度は先生に助けられたはずだと思う。先生は助けないと言っていたけれど、きっと助けられなかったんだと、その後悔をずっとしている気がした。まだ暑そうな外の景色を見る。

 私も生きていいんだと、少し思える。

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