第16話 夏の空
バイトの期間になって、私は静かな大学に向かう。夏休みだからキャンパスにいるのは研究している理系の学生か、クラブ活動をしている学生だ。私は樫木先生の研究室を訪ねた。
「おはようございます」
「おはよう。早速だけど」と先生が渡してくれるプリントをホッチキスで一部ずつまとめる仕事だった。プリントを渡すと、先生は部屋から出ていった。
単純作業だけど、部数が多いから大変だった。冷房の効いた部屋の窓から見える青空は夏の空だ。白いクリームのような雲がその青空の果てにある。
「夏…だ」
ぽつりと自分で言って、私は何一つ夏らしいことをしてないことに気が付いた。かき氷もまだ食べていない。プリントを数えながら、私は今更だと思った。その場限りの友達とその場限りの時間と季節を過ごして、私には何も残らなかったのだから、今更、夏を楽しまなくてもいいと思った。
仕事がもうすぐ終わると言う時に、樫木先生はペンギンの形をしたかき氷器を持って入ってきた。
「氷食べませんか?」
「え?」
私はまるで自分の気持ちを見透かされたのかと思って驚いた。
「カルピスなら、冷蔵庫にあるから」と先生はかき氷器を机に置いた。
「でも…」
「器はないからマグカップ取って」と言いながら、先生は冷蔵庫から氷とカルピスを取り出した。
私は言われた通り、自分のマグカップも机に並べた。
「じゃあ、かき氷するから」と先生が言うので、私はマグカップをペンギンの下に差し込もうとしたが、マグカップの背が高すぎた。
「ちょっと持ち上げるから」と先生が機械を持ち上げる。
そして電動で削られた氷がマグカップとその周辺に散らばる。
「先生、飛んでます」
「まぁ、仕方ない」と言いながら、氷を削り続けた。
努力の割に少ない。二人分を何とか作って、コップの半分しかなかったけれど、そこにカルピスを注いだ。
「…先生」
「ん?」
時間がかかったせいで氷は大分解けているから、氷がたっぷり入ったカルピスで、かき氷と言う感じではないが、先生が一生懸命作ってくれたから私はお礼を言うだけにした。しかし先生は溶けた氷と混ざり合うカルピスを口にして、眉を寄せた。
「マグカップが悪いのかもしれないけど…」
「そうですね。マグカップのせいです」
それでも冷たいシャリシャリしたカルピスは美味しかった。美味しいのに変な顔をしている先生がおかしくなって、私は思わず笑いながら
「美味しいですよ」と言った。
「まぁ…カルピスだから」と先生が言ってから、自分で笑い出す。
普通にカルピスを作った方が早かったということは二人とも分かっているから、笑いが止まらなかった。
「佐々木さん。ホッチキスが終わったら、後でガラスの器を買ってきてください」
「え?」
「ちゃんとかき氷しましょう」
「じゃあ…蜜もですか? 練乳も?」
「そうですね」
蜜の味はイチゴかメロンか、レモンで少し揉めたけれど、最終的にレモンに決まった。私は先生を置いて、準備室を出る。先生にもらったお金を持って、スーパーまで歩く。ちょっとしたガラスの器は近くの百円均一のお店で探す。かわいらしいスプーンも見つけた。
そうしてレジに並んでいると、先に心太が会計していた。
「心太」と私が呼ぶと、心太が手を振る。
私の会計まで心太が待ってくれていた。
「何買ったの?」と私が聞くと、心太は総菜パンと飲み物だ、と言う。
「スーパーに行かないの?」
「ちょっと面倒になってさ」
少しだけスーパーが遠い。
「そっか。私はこの後、スーパーに行くけど」
「何買うの?」
私は樫木先生がかき氷をしたがっていることを心太に話す。
「へえ。浮かれてるなぁ」と心太が言った。
「毎日、暑いしね。ずっと研究室にいるからじゃないかな?」
「まぁ、部屋に籠ってるのって大変だよな」と心太はバスケット部の練習に戻ると言う。
「頑張ってね」
「あぁ。また。晩飯行こう」
「うん」
私はお皿を新聞紙にくるんで、鞄の中に入れた。心太はもう出て行った。その後ろ姿を見送ると、私はなぜか羨ましくなった。心太はもうあの事件から違う場所で生きている。
突然、あの事件に向き合うことになった私とは違う。後何年かかったら私もそうなるのかな、とため息を吐いた。
樫木先生からのお使いを終えて、研究室に戻る。先生は静かにパソコンに向かい合っていた。だから私はそっと買ってきたものを冷蔵庫に入れて、新聞紙にくるんでいたお皿を取り出して一度洗う。
「おかえりなさい」
そう言われて、私は驚いてしまった。
「あ、はい。すみません。先生が…お仕事されていたから」
「気を遣ってくれてありがとう。どんなお皿買ってきたの?」と言って、背伸びをしながら歩いてくる。
「あ、これ、レシートです」と私はぽけっとに入れたレシートをお釣りを渡す。
「へえ。百円でこんなに可愛いのが買えるんだ」と感心したように言った。
樫木先生はいろんなことを知ってるのに、百円均一のことは分っていないのだろうか、と私は思った。
「いろいろ…もっといろいろあります。百円じゃない商品もたまにありますけど」と私はなぜか百円均一について語ってしまった。
「日本はいい国だね」
先生が突然、そう言うから私は首を傾けた。
「さて、もう少し頑張って、夕方にもう一度、かき氷チャレンジしよう。今はコーヒー淹れよう」と先生が言った。
「あ、私がします」と慌ててコーヒーフィルターを棚から取り出す。
「佐々木さん」
「はい?」
「夏休み、予定があったら休んでいいんだよ」
「…特にないので」
「花火とか見に行かないの?」
「花火とか…どこでやってるのか分からないですし。先生は毎年見に行かれるんですか?」
「いや。僕もどこでやってるのか知らない」
「お祭りも行かないんですか?」
「まぁ…どこでやってるのか知らないし。小さい頃行ったきりかなぁ。学生の頃は遠いところに足を伸ばしてたから」
「遠いところ?」
「海外が主だけど…」
私には想像つかなかった。ずっと伯母さんと小さな家で静かな暮らしをしていたから。
「なんか、若い頃って、窮屈に感じたりするんだよ。別に誰も何も自分になんか望んでないのに」
そう言う先生が柔らかく微笑む。
だからか、絶望的な言葉なのに、救われた。
「何も…望まれないことは…良い事ですか?」
先生は少し首を傾けて、ゆっくり言った。
「良い事と悪い事は自分の判断で決めたらいいからね」
頷きながら、それには時間がかかると思った。先生が私の手からフィルターを取って、コーヒーメーカーにセットした。私が慌ててコーヒーを棚から取りだそうとすると、それを制して
「佐々木さんの未来は明るくなるよ」と言った。
嘘でもそう言ってもらえて、嬉しかった。
大きな先生の肩越しに夏の空が広がって、そして白い雲も大きく成長していた。
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