第49話_共鳴、その先へ

 5月2日、午前6時。

  桜丘高校の屋上に立つ祥平は、まだ肌寒い朝風に頬を撫でられながら、東の空に浮かぶ柔らかな朝焼けを見つめていた。

  「……ついに、ここまで来たか」

  昨夜、〈鐘〉が五度目の音を鳴らした瞬間、鏡界と現実の境界は緩やかに溶け合い、衝突や侵食といった現象はすべて静まった。

  街も、人も、感情も――崩壊ではなく、融合へと向かっている。

  「“共鳴”って、こういうことだったんだな」

  後ろから、誰かが階段を上ってくる音がした。

  「早いね、祥平。今日は遅刻じゃないんだ」

  振り返ると、彩心がいた。

  制服の上に薄いカーディガンを羽織り、手にはスケッチブックと何本かのペン。

  「……昨日、戻ってきたばかりなのに元気だな」

  「うん、少しはね。でも――」

  彼女が小さく笑う。

  「まだ、確かめたいことがあるの。“感情が存在する”って、どうやって証明するのか」

  祥平は苦笑した。

  「また始まったよ。感情を式で表そうなんて無理だって」

  「無理じゃないよ。たぶん、式じゃなくて……観測方法を変えればいいだけ」

  彩心は屋上のフェンスにもたれながら、スケッチブックを開いた。

  見開きには、鏡界の浮島、鐘殿、感情獣たち、そして彼女自身が見た無響域の光景が描かれていた。

  「この世界が、“変わった”って誰が証明する?」

  「俺たちが、だろ?」

  祥平が自信ありげに答え、指を鳴らす。

  「ほら、こうやって。今日から、また“六十日”が始まるんだろ?」

  「……違うよ」

  彩心がきっぱりと否定する。

  「これは“これからの六十日”。誰にも決められてない未来の方」

  「そっちのがずっと難しそうだな」

  「だからこそ、やる価値があるの」

  二人の会話の余韻に、朝のチャイムが響く。

  校舎の中からは、見慣れた仲間たちの声。

  千紗が何かを注意していて、翔大が爆発音を出して返し、優也がそれにまた突っ込んでいる。

  変わらない日常が、少しずつ“違う日常”になっていく。


 午前8時――

  桜丘市中央広場。

  かつて〈零視点〉が一時的に制圧した場所。今は仮設テントと市民支援センターが並び、そこに〈共鳴隊〉と〈零視点〉のメンバーが一堂に会していた。

  「今日から、ここの管轄は共同管理になる」

  利奈が真っ直ぐに言い切ると、その背後に立っていた拓巳と凌大も小さく頷いた。

  「ふっ。要領悪い俺だが……せめてこういう形で、過去を清算させてくれ」

  拓巳が手にしていた分厚い報告書を差し出す。そこには、〈零視点〉が行ってきた鏡界干渉の全記録、そして“暴走しかけた第三の鐘の改竄記録”までもが記されていた。

  「本当に、公開するのか?」

  優也が疑いの視線を向ける。

  「……もう、隠す意味がない。俺たちも、選ばなきゃいけないからな」

  利奈の言葉に、かすみがそっと背を押す。

  「大丈夫。私たち、共に挑めばいい。失敗しても、立ち直ればいいのだから」

  彩心はその様子を冷静に見守りつつも、胸の奥が温かくなるのを感じていた。

  (かつての私なら、こういう“空気”すら信用しなかった。でも――)

  思考の裏で、彼女の〈論理結界〉がゆるやかに呼応する。感情波形を遮断するはずの境界が、いまや“共鳴波”を通して新たな秩序を受け入れようとしている。

  「この街で、“感情”はもう避けられない存在になった。だったら、私がやるべきことは決まってる」

  スケッチブックに一行、新たな数式を記す。

  【E = f(Δφ)】――感情の存在を“位相差”として観測する新理論。

  「式が先か、共鳴が先か。答え合わせは、これからね」

  すると――

  「こっち! すごい反応値だ! 完全に安定してる!」

  翔大の声が、仮設端末の向こうから上がった。

  彼が作成した新型感情測定器が、現実と鏡界の接触点で“共振周波数”を記録したのだ。

  「同期率……72%を超えたぞ!」

  「おお……ついにここまで!」

  メキーが歓喜と共に言葉を重ねるが、その日本語が長すぎて一瞬後に言い直す。

  「つまり、すっごくいい感じです!」

  「よし、ならば……もう一段、先へ踏み込もう」

  祥平が静かに、けれど力強く言う。

  「鏡界と現実を、敵でも味方でもなく、“隣人”として認め合える未来を作ろう」

  その一言に、場の誰もが黙った。

  その沈黙は、否定ではなかった。

  言葉より先に、全員の感情が〈共鳴〉していた。

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