第46話_投票前夜

  浮島の夕焼けは、現実の空と鏡界の光が交差する境界で、まるで絵具のパレットを空にこぼしたような不規則な美しさを描いていた。

 23時の投票締切まで、あと4時間。

 その重みを理解しながらも、〈共鳴隊〉の仲間たちは、それぞれの場所で静かに自分の答えを探していた。

     ***

 旧講堂に設けられた仮設医務室。

 瑠美は、ベッドに横たわる拓巳の額に新しい冷却シートを貼り替えながら、微かに震える彼の指を握っていた。

 「ごめん……俺さ、最後の最後まで足を引っ張ってばっかで……」

 拓巳の声はか細く、そして乾いていた。

 左腕にはギプス、胸には包帯が巻かれ、呼吸するたびに苦しげに体がわずかに浮き沈みする。

 「……そんなこと、言わないで」

 瑠美の手が強くなる。

 「全部、私たちの中で意味があったよ。

 あなたが止めた強硬派……あのままだったら、もっと多くの人が犠牲になってた。だから――」

 拓巳は目を閉じ、ただ、ふっと吐息だけを返した。

 瑠美はその手を離さなかった。

     ***

 研究ブースでは、翔大とメキーが最終調整に取りかかっていた。

 「回路チェック完了。データベース同期、オールグリーン。メキー、最終転送準備は?」

 「Yes。仮想演算ユニット“Symlink-Core”は、彩心さんの脳波コードと完全に対応しています。

 浮島の〈鐘殿〉に接続されたマスターサーバーと、全投票結果を即時照合可能です」

 「さすがだな。おまえの助けがなきゃ、ここまで来れなかったぜ」

 翔大はモニターから目を離さず、手元のスパナでカバーを閉じる。

 「けど、マジで怖ぇよな……一票で、全世界の構造が変わるとか、RPGでもやらねぇぞ」

 「現実は、時にファンタジーより過酷です」

 メキーは苦笑しつつ、手帳の端に小さく“ありがとう”と書いて翔大の前に差し出した。

 「……言葉で言うのは、まだ恥ずかしいから、これで」

 「……へへっ、ずりぃな。おまえ」

     ***

 一方、茶道部室。

 かすみは一人、湯を沸かしていた。

 誰もいない空間に、湯の音だけがぽつぽつと響く。

 テーブルには三つの茶碗。

 ひとつは、自分用。ひとつは、遠くで眠っている拓巳用。

 そしてもうひとつは――

 「……凌大くん、来てくれるといいな」

 そう呟くと、ふすまが静かに開いた。

 「来たぞ」

 声が届くより先に、かすみの表情が明るくなった。

 「遅かったね」

 「……人の感情を揺さぶるってのは、どうにも苦手でな」

 凌大は壁際に座り込むと、静かに茶碗を受け取った。

 「おまえは、まだ“共生”を選ぶのか?」

 「うん。私は、“一緒に生きたい”って思う人がいる限り、そう思い続ける」

 凌大は、その言葉に何も答えなかった。

 ただ、茶をすする音が二人の間に静かに流れた。


午後10時――

  浮島中央〈鐘殿〉の階段にて、彩心は白い制服姿でひとり、巨大な“鐘核”を見上げていた。

  まるで静止した彗星のように、幾重にも絡み合う透明のリングが、空中で無音の輝きを放っている。

  その背後から、柔らかな足音。

  振り向かずとも、誰かは分かった。

  「――祥平さん」

  「やっぱり、ここにいたか」

  祥平は無理に明るく言ったが、すぐにそれを取り繕うように、彼女の隣に腰を下ろした。

  「……怖いか?」

  「怖い、というより……わからない、です」

  彩心は視線を落とす。

  「感情って、こんなにも……世界を動かす力があるなんて、思っていませんでした」

  「俺もだよ。でもな、彩心――」

  祥平は空を見上げ、言葉を探した。

  「結局、世界がどうなろうと、変わらないもんがあると思う。

  おまえが、みんなのために泣いたこととか。

  俺が、おまえを守りたいって思った気持ちとかさ」

  「……それも、“感情”ですよね」

  「そう。だから、俺はそれを肯定したい。

  論理じゃなくて、感情で世界を選ぶ。それが、俺の答えだ」

  彩心は、ゆっくりと頷いた。

  「わたしも……“わからないから、信じられない”って、ずっとそう思ってた。

  でも、“わからないからこそ、信じてみたい”って、今は少し……思えるんです」

  その瞬間、〈鐘核〉の中枢に、金の文字が浮かび上がった。

  《Voting Phase Ready/投票フェーズ:準備完了》

  ***

  23時50分――

  全市の各拠点に設置された“投票端末”が起動を開始した。

  それぞれの端末には、二択の問いが浮かび上がる。

  〈Q:あなたは、世界を“共生”させますか? “分離”させますか?〉

  YES――共生。

  NO――分離。

  たった二つのボタンに、無数の思考と、迷いと、祈りが集約されていく。

  中央広場では、市民たちが列をなし、家族ごとに投票所へ入っていった。

  子どもが母親の手を引きながら聞く。

  「ねぇママ、“共生”って、いっしょにごはん食べること?」

  「……そうね。たぶん、そんな感じだと思うよ」

  誰もが正解を知らず、それでも自分の選択をするしかなかった。

  ***

  23時59分。

  最後の一票が、投じられた。

  浮島〈鐘殿〉のリングが一斉に発光する。

  《All Votes Received/全投票完了》

  《結果出力中……》

  緊張が、空気を包む。

  呼吸すら、できない。

  そして。

  《得票率:共生74% 分離26%》

  《集合意志:確定 “共生”》

  その瞬間――鐘核が震えた。

  だが、同時に――背後から鋭いノイズ音。

  警報が鳴り響く。

  《警告:外部コード侵入検知》

  《同期アルゴリズムに干渉あり。再起動しますか?》

  「また……かよ……!」

  翔大が叫ぶ。

  アレクサンドラが血相を変えて駆け込む。

  「誰かが、“共生”を無効化しようとしてる! もう一度――“投票の意味”を、全世界に示さなきゃ!」

  その言葉に、皆が顔を上げた。

  選ばれた意志を、現実に定着させるための“最後の行動”が、今――始まる。

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