第32話_千紗誘拐

 午後一時、桜丘市郊外の廃工場に、ひと気はなかった。戦火を逃れるように放棄されたその場所に、〈零視点〉の旗が掲げられていた。

  天井の一部が崩れ、光が差し込むその中心に、椅子に縛られた千紗がいた。

  両手首には〈鏡界〉鉱石を加工した抑制具がはめられており、能力は封じられている。冷たい鉄の感触が、無力感とともに彼女の意識に重くのしかかっていた。

  「……やっぱり、こうなると思った」

  千紗はうっすらと目を開ける。眠っていたわけではない。ただ、心を落ち着けるために目を閉じていたのだ。誘拐されてからもう一時間。相手の出方を測るには、十分だった。

  物音。誰かが扉を押し開けた。

  「やあ……千紗。ごめんね。手荒な真似をして」

  姿を現したのは拓巳だった。だが、その顔には明らかに迷いがあった。

  「……あんた、自分が何をしてるか分かってる?」

  千紗の問いかけに、拓巳は肩をすくめるように苦笑した。

  「分かってるよ。分かってるつもり。……でも、利奈が言うんだ。バランスを保つには、情報でも人でも、何かを差し出さなきゃいけないって」

  「それで私を?」

  千紗は鼻で笑った。冷笑というより、自嘲に近いものだった。

  「私が誘拐されても、共鳴隊はパニックにならない。そう計算したんでしょ。私が“戦力として重要だけど、感情面では距離を置かれてる”って」

  「ち、違うっ……!」

  拓巳の声がわずかに裏返った。だが千紗はその反応すら想定していたかのように、目を細めて続けた。

  「それが分かってるなら、GPSを切るべきだったね」

  「えっ?」

  「翔大が私の眼鏡に発信機を仕込んでた。非常時用に、って。……あんたの要領の悪さ、利用させてもらうよ」

  「……!」

  拓巳が凍りついた瞬間、廃工場の壁が鈍い爆音とともに破られた。

  「――離れろ、拓巳!」

  叫び声とともに、凌大が剣を振るって突入してきた。

  激突の火蓋が、いま切って落とされた。


 粉塵が舞い上がるなか、突入してきた凌大は、真っ直ぐ拓巳を射抜くような視線を投げた。

  「……千紗から、離れろと言ったはずだ」

  その声音には怒気も激情もなく、ただひたすらに冷たかった。静かな怒りが、場の温度を数度下げたような錯覚を生む。

  「待って、話を――」

  拓巳が言い終わる前に、床がきしむ音とともに空間の相が反転した。工場全体が〈鏡界層〉へとシフトする。廃材の影から、無数の光が走り、景色が歪む。

  「ここでやるしかないようだな……」

  凌大は剣を逆手に構え、足場を選ばず跳び出した。拓巳も咄嗟に、背中の装置から小型の盾を展開する。

  金属音が響く。火花が散る。

  凌大の斬撃は、感情の「裁き」を具現化した鋭利な刃。対して、拓巳の装備は“利奈”が作らせた拡張防具。制圧用にチューンされていたが、本来は防御に向かない。

  「千紗は、交渉のカードとして傷つけたりしない! それだけは信じてくれ!」

  拓巳が叫ぶ。だが、その声を貫いて、凌大の剣が空を裂く。

  「貴様の都合など知らん。仲間を害す者に、裁き以外の対処はない」

  盾が砕ける音。拓巳の足元の地面が爆ぜ、バランスを崩す。

  その隙を逃さず、凌大は踏み込む。

  「やめてっ!」

  千紗が叫んだ瞬間、二人の間に再び大きな音が響いた。だがそれは剣ではなかった。工場の天井がさらに崩れ、陽光が差し込む。

  「応援、間に合いましたーっ!」

  駆け込んできたのは翔大だった。肩には工具箱、腰にはパイプ爆弾のような金属筒をぶら下げている。

  「おーっと、これはなかなか殺気立ってますねー! 凌大、ちょっと深呼吸して落ち着こう?」

  「これは俺の戦いだ。下がっていろ」

  「でも凌大、それじゃダメなんだ。千紗は……こうなることを、最初から見越してたんだよ」

  翔大の言葉に、凌大の眉が僅かに動いた。

  千紗が静かに、口を開く。

  「……私は、“自分が囚われる”ことで、相手の動機を見極めようとした。拓巳の迷いも、利奈の方針も、裏側にある“不安”の正体も、全部含めて情報として取っておきたかった。……けど、もう十分」

  千紗は足元に落ちていたネジを小さく蹴った。その動きに呼応するように、翔大の設置した緊急脱出装置が作動。椅子ごと千紗の拘束が解除された。

  「千紗!」

  翔大が駆け寄る。

  「もう大丈夫。これで誘拐劇は終了。次は、敵味方の境界を問い直す番だよ」

  ――だが、その安堵の瞬間に、背後で足音が走った。

  拓巳が、なにかを叫びながら立ち上がっていた。


 「待ってくれ……俺は、本気で戦うつもりなんてなかったんだ!」

  拓巳が肩を揺らしながら、手を前に出して叫ぶ。その顔は、もはや敵意ではなく、焦燥に満ちていた。

  「じゃあ、あの装置はなんだ? 交渉カードとして千紗を閉じ込めたのも、見せかけだったというのか?」

  凌大の剣先が、なおも鋭く拓巳を捉えていた。空気が張り詰める。翔大が千紗をかばうようにして立ち塞がった。

  「……違う、利奈に言われたんだ。『切り札を用意しろ』って。でも……オレには、そんな上手いやり方がわからなかった。だから……」

  拓巳は唇を噛みしめながら、工場の壁際に設置されていた小さな台座へと手を伸ばした。そこに置かれていたのは、〈鐘停止装置〉のコアらしき、欠けたパーツだった。

  「これ、俺が隠してたんだ。ずっと前に故障した試作品。でも……今の〈零視点〉の連中には、“動くように見せかけた”だけで十分だった」

  「……どういう意味だ」

  凌大の声は低い。

  「つまり……俺は、こいつを“動かせるコア”だと偽って、利奈たちに渡した。でも本当は、壊れてる。使い物にならない。もしコレで鐘を止めようとしたら――」

  「暴走するだけ、ってことか……?」

  千紗が呟いた。

  「……そう。だから、危ないと思って、千紗に“場所”だけ教えた。万が一の時、〈共鳴隊〉の誰かが見つけてくれれば、それで良かったんだ」

  拓巳の声は震えていた。強がりでも芝居でもない。本心だった。最初からずっと、彼は不器用なまま、誰にも気づかれない形で、罪と向き合っていたのだ。

  「……なら、なぜ早く言わなかった」

  凌大がようやく剣を下ろす。その問いに、拓巳ははにかんだように笑った。

  「俺みたいなやつの言葉、信じてくれると思ったか? どうせ、“要領が悪い”とか“負け惜しみ”だって……そう思われるに決まってるって……」

  その瞬間、翔大がぽん、と拓巳の背を叩いた。

  「だったら次から信じてもらえるように、変わればいいだけじゃん。俺も爆発だらけの失敗人生から出直したし」

  「……うるせぇよ、ほんとにもう」

  拓巳は鼻をすすった。彼の目には、涙がにじんでいた。

  「拓巳。あなたは、嘘はついたけど、裏切りはしなかった。私はそう判断する」

  千紗の言葉に、拓巳は、ようやく顔を上げた。

  ――そのとき、凌大の通信機が振動した。受信されたメッセージは、学園要塞からの緊急連絡だった。

  『市内の変動座標、急上昇中。〈鏡界〉の同調率がまた上がってる。……制御不能に近い』

  「……始まったか。次は、俺たち全員が出る番だな」

  凌大は、剣を背へ戻し、仲間たちへと背を向けた。

  「千紗、翔大、拓巳。準備はいいな?」

  誰も返事をしなかったが、それぞれが一歩を踏み出した。すでに言葉はいらなかった。

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