第30話_彩心ダイブ
午前2時ちょうど、桜丘高校の地下階層に設けられた緊急シェルターは、淡い橙の照明に包まれていた。
アレクサンドラの手で〈鏡界〉の深層――“無響域”から意識を救出された彩心は、かすかに呼吸を整え、いまベッドからゆっくりと上体を起こしていた。
「……行くわ。あの鐘に、接続する」
誰に向けるでもなく、彩心はそう言い切った。声には、もうためらいはない。
「危険は、承知してるのか?」
傍らで制御モニターを調整していた祥平が、顔を上げる。
「鏡界の位相が完全同期に近づいてる今なら、内部干渉が可能。ただし、制御プログラムに意識ダイブするには、同期者が必要。……あなたじゃなきゃ、保てない」
「俺が……?」
「わたしの“鼓動”を、リンクし続けて。あなたの感情が、わたしを“現実”に繋ぎとめてくれる」
それは言葉を尽くした理論ではなく、どこか“祈り”に似ていた。
“現象”としての鏡界、“現実”としての鼓動。両者の狭間に立って彩心は、自らを捧げる覚悟を決めていた。
「彩心……」
祥平は迷わなかった。彼女の手を握る。体温はまだ少し冷たいが、確かに“生”がある。
「よし、俺が繋ぐ。絶対に戻ってこいよ」
「ええ」
彩心は短く頷き、ベッドの上に横たわった。額に貼られたインターフェースが、次第に紫の光を帯び始める。
〈感情位相リンク開始――被験者:花守彩心/同期者:山城祥平〉
電子音声がシェルターに響く。
その瞬間、彩心の瞼がふわりと下がり、彼女の意識が〈鏡界〉の深層へ、沈んでいった。
◇
最初に視界を覆ったのは、無音。
音という概念そのものが欠落している領域、“無響域”。目に見える全てが濃密な静寂に包まれ、世界は色を持たないモノトーンの万華鏡のようだった。
「ここが、核制御層……」
彩心の声は、自分の内側にだけ届いた。辺りには、幾重にも重なる幾何学的な構造体。空間の端がねじれ、回転し、断続的に形を変えている。
その中心に、“鐘”があった。
鐘は、まるで心臓のように脈動していた。生物のように呼吸し、鼓動し、そして――感情を吸い上げている。
「同期――を完了させるには、この鐘の“制御アルゴリズム”を書き換える必要がある」
彩心は、回転する記号文字の層へと手を伸ばした。ひとつひとつが感情の波形を数式に変換したような符号だった。
「制御命令:確定感情干渉式、書き換え開始」
そのときだった。
――ピキィィィッ
頭の奥で“音”がした。無響域であるはずの空間に、明らかに割れるような音。
「これは……外部干渉?」
彩心の指が触れた数式が、一瞬で崩壊する。
何者かが、この“鐘”の制御に、別の命令を上書きしようとしている。
「間に合わない……?」
視界が崩れ、数式が黒く染まり、彩心の身体が“核”に引きずり込まれそうになる。
そのとき――
――ドクン
心音。
“現実”から、祥平の鼓動が届いた。
彩心の体がふわりと浮かび、崩壊しかけた数式に一筋の光が走る。
「ありがとう……祥平……わたし、まだ、繋がってる!」
光の中に、一筋の“コード”が浮かび上がる。
“感情均衡:可変同期式”
「これだ……! この式でなら、世界の崩壊も、分離も、“共鳴”に変えられる!」
彩心はそのコードを、鐘の核心部へと放った。
“感情均衡:可変同期式”。
その式は、彩心の中にずっと眠っていた何かだった。
彼女が幼い頃に失った“信じる”という行為、誰かに気持ちを預けるという不確かな経験。それを、いま彼女は自分の意思で選び取っていた。
制御核に注ぎ込まれた式は、鐘の内部構造に波紋のように広がる。あれほど硬質に鼓動していた〈鏡界の鐘〉が、ひときわ柔らかい震えを放った。
「同期率、上昇中……五十、六十、七十……」
現実世界のモニター前で、祥平が目を見開いた。彩心の意識波形が、鐘のコアと完全に一致しようとしている。
「がんばれ……もうすぐだ!」
彼は彩心の手を握り直した。無響域の静寂の中で、その手のぬくもりだけが、唯一の座標だった。
◇
“世界を共鳴させる”。
その願いは、誰かの命を踏み台にする力ではなく、“想いを重ねる仕組み”として彩心に芽生えていた。
けれど――その最中、第三の干渉が起きた。
〈鏡界〉の深奥から、異物が流れ込んでくる。
「これは……コード汚染……!?」
同期アルゴリズムの一部に、赤黒い線が入り込む。形式化されていない感情のカケラ――“怒り”“悲しみ”“憎悪”といった、否定側のエネルギーだ。
「このままじゃ、制御が……!」
彩心の身体が再び空間に引きずられ、意識が分解されそうになる。
その瞬間、誰かの手が、彼女の背を支えた。
――彩心、まだお前はここにいる。
――俺が、ちゃんと引き戻してやる。
声はない。ただ心音が、明確に“意志”を伝えていた。
それは、祥平の鼓動だけじゃなかった。
優也、瑠美、翔大、千紗……
メキー、アレクサンドラ……
そして、〈共鳴隊〉を名乗るすべての仲間たちの想いが――この空間に響いてきた。
“共鳴”が、始まっている。
彩心の瞳が、見開かれる。
「これが……“感情”……」
データじゃない。証明できない。触れることもできない。
それでも彼女の中で、否定は跡形もなく消えていた。
「……なら、今度は私がこの世界を肯定する番」
彩心は両手を広げる。そして、全員の感情波形を包み込むように、新たなアルゴリズムを書き加えた。
“全周位相共鳴式”
その瞬間――鐘が鳴った。
だがそれは、これまでの破滅の合図ではない。
柔らかで、澄んだ、どこか懐かしい音。
“共に在ること”を告げるような、優しい音だった。
◇
「――彩心!」
祥平の叫びとともに、彼女がゆっくりと目を開ける。
シェルターの空気はほんのり暖かく、モニターの数値はすべて正常を示していた。
「……戻った?」
「おかえり」
そう言って微笑む祥平の顔が、少しだけ涙でにじんで見えた。
「成功……したのね」
「いや、まだ途中さ。でも、これでやっと……希望が見えてきた」
世界が完全に救われたわけではない。
だが、彼女が信じ、つなぎとめた“共鳴”が、確かに鐘を変えたのだ。
そう、これは始まり。
鐘の制御も、感情の均衡も、そして“共に生きる未来”も――ここから先に続いていく。
彩心の目が、静かに輝いた。
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