第29話_アレクサンドラ覚醒

 ――感情って、目に見えないものなのに、どうして人をこんなに動かすんだろう?

  アレクサンドラは、自分の指先を見つめていた。ほっそりとしたその指は、冷たくも、震えてもいなかった。ただ、何かが足りていないという感覚だけが、じわじわと喉元にせり上がってくる。

  「……“理解”と“共感”は違うんだって」

  口に出してみても、心には何も届かない。視界に映るのは、校舎裏のベンチ。ほんのわずかな月明かりが、アスファルトの割れ目に差していた。

  彼女は、座ったまま動けずにいた。先ほど、彩心に資料を手渡したとき、自分は確かに“届けた”つもりだった。だが、それが“伝わった”かどうか、自信がなかった。

  「……あたしって、結局、人の気持ちに鈍いままなんじゃないの?」

  吐いた息が白く染まる。季節外れの冷気は、〈鏡界〉が近づいている証だった。

  そのとき、空気が揺れた。

  ベンチの脇、古い物置小屋の窓ガラスに、淡く揺らめく何かが映った。反射ではない。明らかに、別の“位相”を持つ映像が、現実の表面に滲み出してきている。

  〈鏡界〉が……近い。

  アレクサンドラは立ち上がり、無意識のうちにその“揺らぎ”に手を伸ばした。

  指先がガラスを通り抜ける。

  「……これは、」

  胸の奥が、締めつけられるような感覚に満たされた。

  ――見えていなかった“感情”が、視える。

  ガラスの向こうには、色とりどりの光の筋が交差していた。赤、青、黄、そして見たことのない混色の軌跡。それらはまるで、心臓の鼓動のように波打ちながら、人物の輪郭と同調している。

  「これ……“心の波形”?」

  誰のものかは分からない。けれど、確かにそこに在る“感情”が、彼女の目に映っていた。

  「これが……みんなの、気持ち……?」

  頭の奥が焼けるように熱い。胸が軋む。

  だが、不思議と痛くはなかった。

  逆に、今まで曖昧だった自分の“立ち位置”が、ようやく地に足をつけたような感覚に満たされていく。

  「わたし……見えるようになったの?」

  まるで答えるかのように、ガラス越しに“誰かの不安”が揺れた。

  それは――祥平の波形だった。

  濁った青と、ぎざぎざと尖った緑。

  「……怖いんだ」

  彼の感情が読めた。理解じゃない。“分かってしまった”のだ。

  「そうだよね……彩心の意識があの中にいるなら、誰よりも彼が……一番、不安だよね……!」

  胸にこみ上げる熱をそのまま声に変え、彼女は走り出した。

  これまでとは違う。今の彼女には、“他人の感情”が視えている。

  それがどれだけ不器用でも、どれだけ戸惑っていても――。

  「彩心を、助ける!」


 アレクサンドラは昇降口を飛び出し、人気のない夜の廊下を駆けた。照明の落ちた校舎に反響するのは、自分の靴音と、心の奥で点滅する“誰かの感情波形”。

  視える。まだうっすらとだが、目を凝らせば感じ取れる。脈打つように上下する光の線。それぞれが、誰かの想いと直結していた。

  階段を駆け上がる。次の目的地は、図書館。あの場所なら、〈鏡界〉の層が最も濃くなっている。彩心が最後に姿を見せた場所に、再びアクセスできる可能性が高い。

  ――ダメだったらどうする?

  不安が脳裏をよぎった瞬間、視界がぐらついた。目の前の壁に、祥平の“波形”が浮かび上がる。

  細く、尖っていて、震えていた。

  「……大丈夫。彼の不安は、わたしが止める」

  アレクサンドラは自分に言い聞かせ、図書室のドアを開けた。

  ◇

  図書館――その奥の壁には、うっすらと半透明の“境界”が揺れていた。まるで水面のようなその膜は、光の屈折で不規則に歪みながら、“異界”への入口であることを主張している。

  アレクサンドラはその前で立ち止まり、深呼吸を一つ。

  「感情波形を、重ねる……」

  目を閉じて、祥平の“不安”にチューニングを合わせる。自分の掌から、やや濁った青と緑の光が立ち上がった。

  それが境界の膜に触れると、音もなく――道が、開いた。

  「いける!」

  瞬間、強風が吹き抜け、図書館の中のページが一斉にめくれた。吹き出す風の向こうには、〈鏡界〉の深層が広がっていた。

  ◇

  彼女が辿り着いたのは、“位相断層”と呼ばれる空間だった。空と地面が反転し、重力が揺らぐ不定形な領域。通常であれば、迷い込めば二度と戻れない。

  だが――。

  「……あれが、彩心?」

  そこにいた。白く光る幾何学模様の檻に囚われるようにして、彩心は目を閉じ、両腕を抱えるようにして浮かんでいた。

  アレクサンドラは息を呑んだ。見たこともないほど繊細で、壊れそうな心の波形が、彼女の周囲を漂っていた。

  それは、拒絶。自己否定。そして……深い孤独。

  「こんなもの……!」

  胸が裂けそうだった。あの理知的で、冷静だった彩心が、こんなにも追い詰められている。

  「あなたの……気持ち、ちゃんと受け取った!」

  アレクサンドラは右手を前に出し、自らの感情波形を重ねた。心の底から湧き上がるのは、伝えたいという一心。

  “わたしは、あなたを見ている”

  その言葉を感情の波に乗せ、触れた。

  檻が、砕けた。

  彩心の体がふっと重力を取り戻し、静かにアレクサンドラの腕に倒れ込む。

  「……アレク、さん?」

  うわ言のように、彩心がつぶやいた。

  「うん。戻ってこよう。もう一人じゃない。……わたし、やっと、“感情”ってものが、ちょっとだけわかった気がするよ」

  そのとき――

  遠くで、三度目の鐘が鳴った。

  現実世界と〈鏡界〉の位相が、再び激しく揺れ始める。

  でも、アレクサンドラの腕の中には、確かな“鼓動”があった。

  彩心が、確かにここに、生きている。

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